学長Blog★対談シリーズVol.6 この方と『生涯就業力』を語る

2017年03月13日

今回のゲストは、オーガニックコットン事業を展開しながら、自然と共生するライフスタイルの実践と学びを提供している、株式会社アバンティの代表取締役・渡邊智惠子氏です。

「対談シリーズ」

第6回ゲスト:渡邊智惠子氏

北海道斜里郡出身、明治大学商学部卒業後、株式会社タスコジャパンに入社。オーガニックコットン事業を中心の株式会社アバンティを設立、同社代表取締役をつとめる。そのほかにも「なにかを後世に残す」ことを考え続け幅広く活動中。

株式会社アバンティ
小諸エコビレッジ

「畑からいろいろなことが生まれる」

---今日は到着後すぐ、強風の中、本学の教育農場を見学されて、それからここにおいでいただきました。ありがとうございます。どうぞよろしくお願いいたします。

「生活園芸」の授業の中で、学生の変わってゆくさまが顕著であるという話を伺っておりましたので、本日は楽しみにしてきました。
わたし自身、一般社団法人小諸エコビレッジという、自然のことも学んでいく場所を運営しているんですね。畑、キャンプ場、野外料理など、生きる原点を学ぶ機会をつくっています。たとえば児童養護施設の子どもたち、3.11以後思い切り外で遊べない福島の子どもたちに、わくわくのびのびすごせる場所を提供しています。
畑はカモミール、白菜、ニンジン、ジャガイモ、大豆などですね。ポテトフライ畑、ポップコーン畑、キムチ畑など、その野菜が何になるか、成果物の名前をつけたりしています。子どもたちはとても喜びます。

---ジャガイモ畑とは言わないで、ポテトフライ畑、成果物で名前をつけていらっしゃるのですね。面白いですね。

この活動では、「畑からいろいろなことが生まれる」ということを知るんです。
第一には「食」です。たとえば大豆はお味噌になります。「衣」では、アバンティのオーガニックコットン事業の通り、綿を植えます。着るものも畑から来ますね。それから「住」。
ブーフーウープロジェクトといいまして、2013年にわらの家、2015年に木の家を建てまして、わらの家は補修しながら子どもたちの基地のようになっていますし、木の家の半分は茶室ですので、そこで正座して塾長のわたしの話を聞くなどの時間ももったり。2018年にはレンガの家を建てる計画を立てていますよ。

---どのくらいの年齢の子どもたちに、塾長としてどんなお話をされるのですか?

年齢は小学6年生から中1くらい。いろんな話をしますけど......たとえば、児童養護施設の子たちには、学歴がものをいう社会だから難しいよねという話もします。
ほとんどの子は大学には行けない、けれども高卒で差別なく区別なくやっていけるかというと、それは難しい。だから、学歴のない仕事はどうかと率直に話してみたり。
子どもたちが正座してきちんと話を聞けるということに、ほんとうに驚きますよ。

「開墾」して生きていくことを伝えたい

---子どもたちが正座してきちんと話を聞く、というのは、渡邊さんの話す姿勢が影響しているのだと思います。それまで率直に話してくれる大人があまり周りにいなくて、きれいごとばかり言ったり、あるいは相手にしなかったりするようなことが多かったことでしょうから。

そうかもしれません。
学歴は社会に出ると重要ですよね。中卒だと、そこで待っている仕事はおのずと決まってしまう。女の子は最終的に風俗、男の子は......と、そういう子たちを見ていて、やっぱりきれいごとではないとわかっていますから。農家、畑の仕事、都会でなくてもいいのではないか、と声をかけます。児童養護ホームにいって、寮費の払えない子どもたちをエコビレッジに呼びますね。そうすると、子どもたちが泊まりで農業やって大人たちと向き合う姿を見ることになります。農業のすごさを実感しますよ。
人としての営みがきちんとやれないのではいけない、「開墾して生きていくこと」を伝えたいんです。たとえば、「道(どう)」のつく仕事、茶道、華道、書道、香道などに就きなさいと言います。

---なぜ、茶道、華道なのでしょう? そういったものは、セレブ層の方々のものというイメージもありますが......。

セレブな世界だからこそ、です。その子に対する期待感をもって、「イノベーター」として入ることを勧めるんです。家元制度なんかがあって大変かもしれないけれども、そこへいったん飛び込んできちんとやっていけば、世の中のおばさんたちは一目置くんじゃないかと。

---子どもたちがその世界に入るには、どのようにするのでしょう?

その道の「先生」と言われるような人たちは、街中にたくさんいますよね。そこに"奉公"に行きなさいと言います。男の子たちであれば、そこで躾やもてなしを身につけられます。そうしてきっちりやっていけば、トップにはなれないかもしれませんが、トップに近いところで働けるようになります。狭い世界で一生懸命やったとしたら、光がさすだろうと思うんです。

---なるほど、「奉公」ですか。そういえば以前テレビで、包丁職人の紹介をしていたのを思い出します。もとは茶髪の子が展覧会で包丁に魅せられ、人間国宝に弟子入りをして修業を続け、賞をとるまでになるというものでした。

自分に向き合う、ほんとうに向き合うことで、何かを残せるようになると思います。
「ぼくなんて生まれてこなければよかった」と思うのではなく、何事も極めていけばいいと思うのです。
わたしはとにかく「何かを残す」ということをいつも考えているんです。

自分の「元気」は人のため世のために、という使命をもって

---渡邊さんは、なぜそんなに生き生きしていらっしゃるのでしょう?
子どもたちを集めて、生きる原点を教えたいとおっしゃっていましたが、渡邊さんご自身の生きる原点とは何でしょうか? 

元気なことが奇跡、普通ではないことだと思っています。常に元気である、ということは、「まれ」なことなんです。元気なことが"地"なのだとは思いますが、何のためにこんな元気を神は私にくださったのか? これは自分で考えるしかないんですが、自分一人のために使ってはいけないと思う。
わたしは北海道斜里町の出身で、祖母にはいつもおてんとうさまが見ているよと言われてきました。人間ウラオモテがあってはいけないと、陰で何かやるようなことはいけないと思ってはいました。
ただ、だんだんこの元気は人並みではないなとも思ってきました。自分のためにではなく、人のため世のために使わなければ、足元をすくわれてしまう、と。
世の中には元気のない人たちが、たくさんあふれています!

冬の時代もあったけれども

---人並みではない元気をずっと通していらして、大変ではありませんでしたか?

すごくハッピーでしたよ。
ただ、わたしにも冬の時代はあったんですよ。わたしは1月28日生まれの未熟児で、学校に行ってもついていかれず、登校拒否になりそうだったんです。
母に連れていってもらって、同級生に案内してもらってお世話してもらって、ようやくいられるというような状況でした。
また、小1のときに、大好きな憧れでもある女の子に、生まれたてのオタマジャクシをプレゼントにもっていったことがあって。生まれたてのオタマジャクシってとてもレアなものだったから贈り物にしようと思ったのですが、ボウルに入れて持っていったら「気持ち悪い」と言われてしまって......ショックでした。それでなくても自分は落ちこぼれなのに、と泣きながら帰って。しばらく立ち直れませんでしたね。
当時は孤独な時間を過ごしました。ただ、オルガンが好きだったから、朝早く学校へ行ってオルガンを独り占めして練習して、なんてことをして。小4までが冬の時代です。

---小4のときに何があったんですか?

両親の離婚で、斜里から釧路に移ったことですね。自分は母についていきましたが、兄と妹は父方につきました。釧路へ行ってから人生180度変わりました。学校の授業についていけるようになったんだと思いますね。いつのまにか、クラス中の子がうちにくるようになっていました。

---そんなに変わるものなのですね?

今思い返しても「なぜ?」とは思いますが、やはり斜里から釧路への「転地」がきっかけだったのでしょうね。その後、春の時代、夏の時代と続くわけです。

税理士、会計士を目指して上京して進学

---つらい時期あってこその夏の喜びですね。
ところで、大学は明治大学商学部でいらっしゃいますが、何を学ばれたのですか?

大学では交通論をやりました。高校が商業高校でしたので、商学部。母の再婚相手が国民金融公庫に勤めていた人だったんですが、高校卒業したら銀行へ行け、行けなければそろばん塾でもやればいいと言われていました。当時女性の花形職業というのは、銀行とか保険会社でしたから。
それで、そう思って商業高校に行ったら、そこではこれからの女性は自分で職業を持ちなさいという先生がいまして。

---当時としてはあたらしい考えをお持ちの先生ですね。当時の先生たちは女子生徒にそんなことなかなかおっしゃらなかったのではないかしら。女の子は結婚してお母さんになりなさいと言う先生が多かったよう思いますが。

そうですよね。それで、先生に「じゃあ、どんな仕事を持ったらいいのか?」と聞いたら、税理士か会計士を勧められました。これがストンと落ちて、「どうやったら会計士とか税理士になれるのか」と聞いたら、「まずは大学」と言われたんです。大学の商学部に行って公認会計士とか税理士の資格をとりなさいと言われたのが高2です。
たまたま兄も税理士を目指して東京で勉強していたので、それだったら自分も東京へ行こうかな、と思って大学へ行ったわけです。

学生結婚、義理の父母との同居、そして就職活動

---でも、なぜ交通論?

交通論は自分の選択というよりは、選択したゼミの先生の専門が交通論だったから、というだけなんです。ただそれだけ。

---行き当たりばったりみたい、と言っては失礼ですね。ごめんなさい。なんと言いましょうか、天衣無縫、のびやかに生きてこられたのですね。

いえいえ、ほんとに行き当たりばったり、その通り。
わたし、大学入って結婚しちゃったんですよ。当時流行ったでしょう、「神田川」。それを地でやっていたんですよ。相手は中学のとき隣の席だった同級生で。彼は上京してプロの写真家になりました。

---学生結婚ですか。「神田川」というと、まさになにも怖くなかったですか?

なんにも怖くなかったです。東京の人のあまりの多さにびっくりでしたけどね、元気にやっていました。

---斜里から釧路へ移って冬の時代から春、夏へ。そして、東京での大学生活、学生結婚......それが今のアバンティの活動にどうつながるのでしょう?

アバンティはもうちょっとあとなんですけど、結婚して、就職するにあたって税理士の道はやめたんですよ。結婚して彼の家族と一緒に暮らす、つまり義理の父母と同居することになりましてね。大学へ行っているうちは家にいないからいいですけど、卒業して仕事もしないで家にいたら大変だと思って、就職したいと伝えたら、ぜひと言われました。
それで、英文経理のできる週休2日のところを探したわけです。大学からは大企業を推薦されて、受かったんです。でも、そこで会う経理の人たちとは一緒に働きたくない、と思ってしまいましてね。だって、事務の腕カバーをしてメガネかけて、スリッパぺたぺたいわせて歩いて、「なんで大学行ったの?」なんて聞かれたり。それで、朝日新聞の5行の人事広告から探すことにしました。週休2日・英文経理・新宿、この3つのキーワードで見つけたのが、新宿の貿易会社タスコジャパンです。当時6人の社員で年商6億の会社でした。
そこで、ボスになる方に、恵泉の「生涯就業力」に類するようなことを言われました。
「これからの女性には責任ある仕事をしていただきたい」、と。

---均等法もない時代に、そういうことをおっしゃってくださる男性がいらしたのですね。

それで、もうこの会社しかないと思いました。でも、応募は100人、採用は2人なんです。
大学卒業生の就職は厳しかった時代ですよね。ある企業では女性は結婚して子どもも生むのに、なぜ仕事をするの、なんて言われることもありました。

社長に自ら二次面接を申し出る!

---社長さんは「これからの女性には責任ある仕事を」とおっしゃったとのこと。社長さんもすばらしいと思いますが、渡邊さんもアピールされたのでしょ?どうやってアピールされたのかしら?社長さんが渡邊さんに目にかけてくださったポイントはどこだったのでしょう?

ここしかないと思ったから、社長に「もう決まりましたか?」って毎日電話しました。
もうやる気しかない、やる気のみですね。最初、「応募者100人いて、その中で渡邊さんは経理の経験がないので分が悪い」と言われたのです。他に当時28歳の方できちんと経験のある方がいらっしゃるので、とはっきり言われたんです。でも、「二次面接をしてください」とお願いして、会社がお休みの土曜日にやっていただきました。社長と専任の方とで面接して、最終的にはその経理の方が「これだけ熱心に言ってくれるのだから、この方でいいのでは」とひとこと言ってくれたんです。

人の可能性を絶対的に信じ、夢は次から次へ

---まさに押しの一手の勢いですね。渡邊さんは尻込みしたり、人見知りしたりなさらないのですか? 渡邊さんのプッシュ力には人を信頼する力がおありのよう思います。初対面の人になかなか心を裸にして向き合えないものだと思うのですが...。

人が大好きなんです。嫌いな人もいますよ。なんでこんな言い方するの、などいろいろ思う相手はたくさんいますが、でも、基本は人が大好きです。
人の可能性ってすごいじゃないですか。何かのきっかけでものすごく変わったり、何かに忠実であったり正直であったり......。
わたしは人に対して疑いを持たない、絶対疑わないです。人を信じていますね。
会社でも、人に騙されたことはほとんどないです。
納品したのに未払いだったという相手先から18年ぶりに電話連絡があり、支払いの申し出があったこともあります。うれしかった。その人が20年近く心の片隅に置いていたんだと、申し訳ないような気持ちのほうが大きくもあったんですけど、でも、すっごくうれしかったです。

---たしかに人を信じたくなりますね。

そうでしょう。わたしは夢が多いんです。次から次に夢が降ってくる。言うとみんながのってきてくれる、伴走してくれる人たちが多いです。
わたしができることはたかが知れているし、わたしから何を与えるかではなく、わたしが生きているところから何かをつかんでもらえばいいと思っているんです。

恵泉の可能性にわくわくする!

---ところで、アバンティではタイ、カンボジアとの関わりも深いとお伺いしています。
恵泉もタイやカンボジアなど、フィールドスタディといって体験学習で外へ出しているんですよ。約半年、山岳民族の村で活動をしたりするプログラムですが、昨年はそのタイ長期フィールドスタディ15年間の歴史をまとめたこんな本も出たんです。(『タイで学んだ女子大生たち』コモンズ)
生活園芸もフィールドスタディなどの体験学習も、成果の見える恵泉教育の原点の一つと自負しております。

こんなことをやっている女子大学があるなんて知らなかったです。知られなさすぎです。
そういう経験をした子はすごいですよ。がらっと変わりますよね。
今日はじめてこの大学に来ましたけど、入ったところからこの大学のつくりは品格があるなと感じました。大きなキャンパスではないけど、人を迎える姿勢がオープンな感じで、すっと入れて。すぐに畑を最初に案内してもらったことも、感動的でした。
畑を見ながら、加工食品をつくるところまでできるといいですよね。野菜だけだと数や種類、時間にも限りがありますが、乾燥野菜のように加工することで時間的な長さをもつ「生産品」としてバリエーションが生まれます。作ったものがこういう生産品になる、という学びにもなります。
女性にとっては、「食べさせる」ということが料理の根底だと思うんです。相手がいて、喜ぶ顔を見ることが根底にあって、集中して楽しんでやれるのかなと。料理という部分が必要ですから、売れるように商品を作ることでブランディングになるのではありませんか? それも単体ではなくて業者と一緒に、仲間に引き入れてやっていく、そして卒業生を活用する。結構大きい市場ですよ。わたしがわくわくしちゃいます。

今まで誰もやったことのないことをやっているという自負

---アイディアをたくさんありがとうございます。
ところで、冬の時代から転地で変わられて夏の時代へとすごされてきたわけですが、当時は今のようなご自身の生活を想像していらっしゃいましたか?

全然です。今の子たちは計算して計画を立てますね。でも、わたしは計画を立てられるようなことはやらない、と思っています。開き直りでもありますが、わたしが今やることは、今まで誰もやったことのないことをやっている、という自負があるからです。計画を立てて予算を立ててやれるようなものは既存のものであって、自分はそういうものではない、と。

---お話をうかがって学園創立者河井道の思いと通じるものがあると思います。河井先生は1929年に学園を設立しましたが、女性の人生は家庭のことばかりではないと伝え、「人の踏みならした道を進むことに満足するのではなく、誰も歩んだことのない道を進みなさい」と常々若い女子学生たちに言っておられました。

1929年、世界恐慌の時代にそんな思いで学校を建てられたことは驚きですよ!

「わたしでよければ」、世のため人のために働きたい

---大学はその理念を大切に受け継いで、どんな生涯であっても、どんな困難なときも、失敗しても這い上がる力、「生涯就業力」をもった女性を世に送り出したいと願っています。
いろいろとお話をうかがってきましたが、最後に一つ、ところで、渡邊さんは失敗されなかったんですか?

わたしは都合のいいことだけを覚えているんです。
20代の頃占いで、「あなたはけもの道をつくる人、道なき道を作って照らす人」「あなたは猿田彦神社の末裔、水先案内人だ」と言われ、なるほどそうかと真に受けとめました。
道なきところに道をつくることも、水先案内人も、0から1をつくるエネルギーが必要です。だからこの元気をいただいていると思うわけです。
何か言われたときに「ノー」と断らない自分でありたい。「雨ニモ負ケズ」の境地で、何か言われた時に「はい、わたしでよければ」と言える人生でありたいんです。
今は、古着やフリマ好きの娘が自分の服を着てくれることも大きな喜びです。自分をどう見ているのか、そういうことを知ることができる。
実は、娘は帝王切開で産んで、2100グラムの小さな赤ちゃんでした。すぐに保育器に入ったので、1か月わたしは母乳を届けるだけで、しっかりリカバリーできました。退院後も、病院近くの保育園にすぐ入れて、先生3人に子ども2人という環境で、ほんとうに手厚く世話をしてもらえました。それを思い返すと、世のために働かずにはいられないではないですか。

日本人の女性だからこそできることを目指して

---ぜひ世の中のためにこれからもご活躍ください! そして、恵泉の学生のためにもお話に来ていただけたらありがたいです。

そうですね、学生たちにも会ってみたいです。どんな子たちが来るんだろう、その学生たちがどんなふうに変わっていくんだろうと、すっごくわくわくしますね。
何か必要とされて、お役に立てるのであれば、先ほども言ったように「雨ニモ負ケズ」の境地で、かかわらせていただきます。
22世紀を担う子どもたちを、日本人の女性だからできることをつくっていけたらいいなと思っていますので!

---「今日は楽しみにしてましたぁ」とイスにお座りになる前から対談がスタート。人が好き、人を信じているというお言葉そのもののオーラに包まれた楽しい対談のひとときでした。
いただいた名刺には「あなたが22世紀に残したいものは何ですか?」書かれていました。
私が残したいもの、それは女性たちが渡邊さんのようにおおらかな明るさに包まれて生きられる社会、渡邊さんがすばらしいと誉めて下さった恵泉女学園大学の教育、この二つでしょうか。渡邊さん、今日は本当に有難うございました。

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