「原爆文学」の講義に関連して 講演会「長崎1945.8.9からのバトン」が開かれました 日本語日本文化学科

2014年01月16日

日本語日本文化学科の講義科目「日本文学特殊研究Ⅱ」(篠崎美生子准教授)では、この半年間、原爆をテーマとした文学作品や映画、マンガを、受講生とともに読んできました。原民喜「夏の花」、永井隆「長崎の鐘」、井伏鱒二「黒い雨」、中沢啓治「はだしのゲン」、林京子「祭りの場」、井上ひさし「父とくらせば」(映画は黒木和雄監督)――それらは、被爆がどれほど人の心身を痛め続けるかということを、私たちに教えてくれます。どんな理由があっても、こんな非道があっていいわけがない、と叫びたくなります。しかし、同時に、被爆体験のない私たちが、被爆の痛みを分かったつもりになって発言してよいものだろうかというためらいは、私たちの心の中に残っていました。

そうした中、14歳の時に長崎で被爆なさったという寺田修一さんが、1月7日の授業のゲスト講師として本学にお越し下さることになりました。68年前の貴重な経験を伺える貴重な機会ですので、一講義の枠を越えて全学に参加を呼びかけたところ、学生、教職員をあわせて約200人が会場に集いました。

寺田さんは学徒動員中、爆心地から1.3キロメートルのところにあった軍需工場で被爆、ご自身怪我を負いながらも級友を助けて火を逃れ、数日をかけて長崎近郊のご実家にたどり着いたのだそうです。 その時の体験で、今だにはっきりと心に焼き付いているのは、見知らぬ少女を助けられずに置いてきたことだと、寺田さんはおっしゃいます。山道に倒れていたセーラー服の少女は寺田さんと同じ14~15歳、血にまみれて寺田さんに助けを求めた、それを助けられなかったことを今でも思い出し、「俺が殺したのではないか」と悔やまれることがあるというのです。ご自分の命でさえ危ういこんな時、しかも中学生であった寺田さんに、責任など微塵もないのに、そのような思いを68年もの間抱えて生きてこられたとは――。あまりの不条理に言葉を失う思いでした。

「戦争は、何ひとつよいことはもたらさない」と寺田さんは講演の最後におっしゃいました。私たちには、寺田さんのような被爆経験はありません。しかし、その経験をこのような重い言葉として分けていただくことで、むしろ、自分たちや、自分よりもあとの世代が、こうした経験をせずにすむように語り継いでいくことができるのかもしれません。授業では、記憶の「分有」という言葉を時々使いましたが、それが改めて、実感を以て心の中に降りてきたように感じられました。

寺田さんのご講演を聴いたあとは、受講生六名も登壇し、公開座談会の形でより具体的にお話を伺いました。戦後、社会人になられてからは、世界中70カ国でお仕事をなさってきたという寺田さん、「アメリカへの憎しみはなかったですか?」という質問に、「個人への憎しみなどありません。どこの国の人も人情は同じです。」と答えておられたのが印象的でした。また、「意見の異なる相手、自分の思いが伝わらない相手には、根気強く語りかけていくことだ」と話しておられたことも、深く心に残りました。

寺田さん、貴重な90分をありがとうございました。寺田さんにいただいた言葉のバトンを、少しでも語り継いでいけますように。

講義中の寺田さん

講義座談会

熱い思いで聞き入る聴衆