『アガサ・クリスティー自伝』を読む 多文化オープンコース

2022年07月18日
 ゼミ/授業名:高濱俊幸ゼミ

アガサ・クリスティーの肖像画、1910年 by Nathaniel Hughes John Baird

アガサ・クリスティーと言えば、イギリスの誇る世界的推理小説家です。作品の多くが映像化されていて、最近も『オリエント急行殺人事件』(2017)、『ナイル殺人事件』(2022)などが公開されました。それぞれの舞台は、『オリエント急行殺人事件』がイスタンブール発カレー行きの豪華寝台列車、『ナイル殺人事件』がエジプトのナイル川に浮かぶ観光船という具合に、旅を好んだクリスティーならではの設定が作品の魅力を増しています。

歴史を研究する高濱3年ゼミでは、春学期に『アガサ・クリスティー自伝』を読むことにしています。ゼミでは前半だけを読書会のように読み進めていきます。1890年生まれのアガサ・ミラーが、結婚してアガサ・クリスティーを名乗るようになる1914年までを対象に、小説家として成功する以前の姿が生き生きと描かれています。こうした自伝をみんなで読むことで、書き手に共感しながら過去の出来事を考えることができます。

さきほどアガサ・クリスティーは旅が好きだったと書きました。自伝にも旅のことがたくさん記されています。前半でとくに印象深いのは家族で旅する場面です。比較的裕福な家に生まれたアガサでしたが、家計が傾いたことから、物価の安いフランスに長期間の旅行に出ます。高級リゾート地にある自宅を賃貸に出して、1年半にわたる旅に出かけました。1896年、アガサ6歳のときのことです。

旅程としては、最初に、ピレネー山脈の麓、スペインとの国境に位置する町ポーで半年を過ごしました。その後、ルルド、コートレに移動し、パリにも1週間ほど滞在します。さらに大西洋沿岸の町ディナールを経て、ガーンジー島で冬を越して、トーキーの家に戻ってきました。旅行に出るまでなかなか遊び仲間ができなかったアガサでしたが、ポーでは同年代の親しい友を得ましたし、コートレで過ごした時間は「もっとも楽しい夏の一つ」となりました。さらに、ディナールでは泳ぎをおぼえるなど、思い出いっぱいの大旅行でした。幸せそうなアガサの姿が目に浮かびます。アガサが旅行好きになったのは、このときの思い出があったからでしょう。

自伝の前半部には、もう一つ印象的な旅が記されています。1906年冬、アガサは17歳でした。旅の目的地はエジプトのカイロ、アガサの社交界デビューのためでした。10歳以上年の離れた姉はニューヨークでデビューしましたが、アガサがカイロだったのには、3つの理由がありました。第1に、母の原因不明の病気を治すための「転地療法」でした。第2に、欧米の大都市での社交界デビューは費用が嵩むからです。第3に、物怖じするアガサには、きらびやかすぎる場所は相応しくないと母親が考えた節があります。こうした理由から、アガサの社交界デビューの地にはカイロが選ばれたのです。

アガサはカイロで「50から60のダンスパーティーに行った」と書いています。そのほかにも、ポロの競技を見物したり、ピクニックに出かけたりしています。カイロ周辺には古代遺跡で有名な観光地があったのですが、こちらにはまったく関心がなかったようです。当時イギリスの保護領だったので、カイロにはイギリス軍が駐留し、若い将校たちが大勢いました。社交界デビューの一番の目的は結婚相手を探すことだったのです。結局3ヶ月の滞在で、アガサは「ほんのかすかにさえ恋心をおぼえ」なかったのですが、社交生活にはすっかり慣れましたし、ダンスの相手を決める複雑なルールも身につけました。

アガサの子ども時代は大英帝国の全盛期と重なっていました。その後、1914年から1918年まで続いた第1次世界大戦でヨーロッパは大きな変貌を遂げます。自伝が書き始められたのは1950年、そのとき60歳だったアガサ・クリスティーは、1914年以前の時代に強い愛着を感じ、「古き良き時代」を懐かしみます。それからさらに半世紀が過ぎました。アガサの子ども時代、第2次世界大戦後の自伝執筆期、ゼミで自伝を読む2020年代という具合に、3つの時代が交錯する読書会です。ゼミ生のあいだで活発に意見が飛び交います。

※(文中の引用は、乾信一郎訳『アガサ・クリスティー自伝』ハヤカワ文庫に拠りました。)

担当教員:高濱 俊幸

「政治思想史」は政治学の一分野です。人類はこれまで政治についていろいろと考えてきました。その結果、さまざまな政治の理論や見解が生まれました。それらを歴史的に研究するのが、政治思想史という分野です。とりわけ18世紀のイギリスを中心に研究しています。この時期としてはジョン・ロック、デイヴィッド・ヒューム、ジェレミー・ベンサムなどが有名ですが、一般には顧みられることの少ない人物にも目を向け、ときどきに興味の向いたことを、取り上げてきました。

高濱 俊幸