アンコール遺跡とフランス―偉大さの象徴を求めて

2012年10月01日

ユネスコの世界遺産リストによると、400km2の広がりを持つアンコールは、9世紀から15世紀のクメール帝国の首都の遺跡であるという。その存在は、16世紀にはヨーロッパに伝えられていたものの、1863年にフランス人のアンリ・ムオが再発見したことによって、広く知られるようになった。
19世紀は、フランスがイギリスその他の列強と争いながら、植民地を拡大していた時代であった。カンボジアは、1867年にフランスの保護国となり、1887年にはフランス領インドシナに編入される。アンコール遺跡群の周辺は、タイとの調整を経て、1907年にフランスの統治下にはいった。

アンコールは、フランスにとって、イギリスが支配するインドに対抗し、フランス植民地帝国の偉大さを示す象徴的な地であった。古い文明の地を支配することは、文明の中心を自負するフランスにとって、なくてはならない要素であった。そのため、フランスは熱心にアンコール遺跡の研究・修復を進めていく。しかし、それは現地から遺跡を持ち帰り、フランス本国の所有物とする過程を含んでいた。パリの博物館には、現在も多くのアンコール美術が展示されている。現地でも、行き過ぎた修復により、ヨーロッパ的なデザインが入り込んでしまった部分がある。
20世紀になると、フランス本国でも植民地統治に対する批判が高まってきた。それに対抗するように行われたのが、1931年の植民地博覧会である。そこでは、植民地の人々や文化はヨーロッパに比べてあくまでも劣っており、フランスが代わって学術的な調査や修復を行っていること、その意味で統治はフランス文明の恩恵を植民地に与えるものだということが強調された。アンコール遺跡は、その代表として宣伝材料に用いられることとなった。博覧会のために遺跡から直接型をとり、アンコール・ワットの実物大模型まで作られた。遺跡の保護を優先すれば、そのような暴挙が許されるはずはなかった。
この1931年の植民地博覧会で作られたパヴィリオンは、今はほとんど残っていない。しかし、1907年にも小さな植民地博覧会が行われており、そのパヴィリオンはパリの東、ヴァンセンヌの森の東端にある。近年、放置されていた遺跡をパリ市が国から買い取り、修復が始まったため、部分的に見ることができるようになった。そこには、アンコール遺跡にみられる七つの頭を持つ蛇を模した、小さな橋の欄干も残っている。フランスが当時古い文明への強いあこがれを持っていたこと、しかしそのために政治的・経済的・軍事的な力に物を言わせて、現地の人々の意思にかかわらずそれを手に入れようとした過去があらわになっている。

荒又美陽(フランス語社会圏)

アンコール・ワット遠景

木が絡まり、時間の経過を感じさせるタ・プローム遺跡

パリ・ヴァンセンヌの森にある博覧会の遺跡

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