中世を生きる町 ― アッシジ、フランチェスコ聖堂と関連修道施設群(イタリア)

2012年06月04日

中世も終盤に差し掛かった13世紀以降のヨーロッパでは、托鉢修道会と呼ばれる共同体が発展する。キリスト教精神に則って集団生活を営む修道会は古くから存在したが、13世紀に相次いで設立されたフランチェスコ会やドメニコ会などの托鉢修道会は、私有財産を所有せず、修道士たちは托鉢によって得た施しによって生活を営んだ。

イタリアにおける托鉢修道会の創出に多大な貢献をしたのがアッシジのフランチェスコ(1182-1226)である。アッシジの富裕な商人の息子として生まれたフランチェスコは、町の郊外のサン・ダミアーノ聖堂で神の声を聞き宗教生活に身を投じたという。フランチェスコは現世的な富を放棄し、仲間とともに粗末な衣服を腰で荒縄で留めただけの姿で布教活動を行った。彼らの活動は教皇インノケンティウス3世にも受け入れられ、「小さき兄弟会」、通称フランチェスコ会が設立される。

1226年のフランチェスコの死後、托鉢修道会としてのフランチェスコ会は大きな転換点を迎える。「キリストの生まれ変わり」とまで言われたフランチェスコは死後わずか2年という異例のスピードで列聖され、フランチェスコ会の勢力はヨーロッパ各国で拡大の一途をたどる。トゥールーズの聖ルイのように、各地の王族・貴族からもその修道院の門を叩くものも出た。

フランチェスコの信奉者たちは莫大な喜捨を集め、アッシジの町の西北端にフランチェスコに捧げられた巨大な聖堂を建造した。上下二層からなる聖堂は、13世紀半ばのイタリアを代表する宗教建築であり、同時に中世末のイタリア美術の宝庫となった。簡素な石積みのファサードや上堂の単廊式のプランは、フランチェスコ会の清貧の思想を反映したものとも言われている。内部の装飾には、近隣の大都市から芸術家が招かれた。上堂にはフランチェスコの生涯をあらわしたフレスコ画がジョットらの手により制作された。聖フランチェスコの墓所のある下堂には、シエナ派のシモーネ・マルティーニによる聖マルティヌス伝などが残されている。清貧に生きたフランチェスコに捧げられた聖堂は、当時の最先端の芸術であったフィレンツェ派とシエナ派が一同に会する造形芸術の実験場の一つとなったのである。

サン・フランチェスコ聖堂はまた、その「国際性」でも注目に値する。フランチェスコ会のネットワークを通じて、ヨーロッパ各地の芸術がイタリアに流れ込んだ。聖堂の建築様式は、当時のフランスで流行していたゴシック様式に顕著な影響を受けている。また上堂後陣には、イタリアに現存する最初期のステンドグラスが設置された。これはおそらく、ドイツの工匠の手になるものである。

アッシジは、フィレンツェとローマのほぼ中間に位置している。現在なら、双方の町から電車で約2時間、その後バスに揺られて30分ほど山道を登っていく。聖フランチェスコという聖人と彼を取り巻く熱狂がなければ、おそらくは典型的な中世の町のひとつという程度の位置づけに留まった場所だろう。その中世都市の街並みのなかにあって場違いなほどの威容を見せる聖フランチェスコ聖堂は、多くのキリスト者の、そして美術を愛する旅行者たちの巡礼の地となったのである。

伊藤拓真(西洋美術史、イタリア・ルネサンス)

サン・フランチェスコ聖堂正面

丘の上に築かれた街並み

フランチェスコに従った修道女、聖キアラに捧げられたサンタ・キアラ聖堂