世界遺産ブログ

世界の様々な地域の歴史・文化を専門とする教員が、貴方を世界遺産の旅へご案内します。

恵泉ディクショナリー

クイズのこたえ 第2号

3.ローマの歴史地区、教皇領とサン・パウロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂

ルイ16世とマリー・アントワネット
あまりに有名な王と王妃ですね。コンコルド広場のオベリスクの下には、二人の名前と処刑日を刻んだプレートが埋め込まれています。巨大なオベリスクを運び、広場に建てる作業は19世紀の技術でも難しく、たくさんの絵画や版画に記録されたほか、オベリスク自体にもその手法が刻まれています。フランスはこのオベリスクをエジプトから贈られたものだと主張していますが、現在のエジプトはコロニアリズムによるものだとして返還請求をしています。

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4.アッシジ、聖フランチェスコ聖堂と関連修道施設群

サン・フランシスコ
サン・フランシスコとは、スペイン語で「聖フランチェスコ」のこと。サン・フランシスコという都市名は、スペイン人の伝道者によって名づけられました。

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6.ブレナム宮殿

保守党
チャーチルは最初保守党から政界デビューを果たしましたが、まもなく自由党に移って内閣入りし、再び1924年総選挙から保守党に戻りました。今日では一般に保守党政治家として知られています。チャーチルはノーベル文学賞の受賞者でもあります。

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7.河港都市グリニッジ

エドモンド・ハレー(1656-1742)
ハレーは、1682年に自ら観測した彗星が1758年に回帰すると予測しました。ハレーの死後に彗星の回帰が確かめられ、ハレー彗星と名付けられました。

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8.バース市街

ジェーン・オースティン
オースティンは1775年に生まれ、1817年に亡くなっています。バースの社交界が華やかだった時代です。オースティン自身、1801年から1805年までバースで暮らしました。なお、小説『エマ』は森薫によって漫画化されています。

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9.サン・ティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路

聖ヤコブのシンボルとして
帆立貝は、聖ヤコブの遺骸を乗せた小舟に付着していたことに由来して聖ヤコブのシンボルとされていたことから、その聖ヤコブを詣でるサンティアゴ巡礼(者)のシンボルともなりました。

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10.セビーリャの大聖堂、アルカサル、インディアス古文書館

コロンブスが新大陸上陸後、最初に植民都市を建設した、現在のドミニカ共和国の首都サント・ドミンゴの大聖堂内
コロンブスは1506年5月20日スペインで亡くなり、一旦はセビリアの修道院に埋葬されましたが、 その後、遺言に従い長男がドミニカのサント・ドミンゴ大聖堂に遺骨を納めました。ところが、1795年、西仏戦争後のバーゼルの和約によってドミニカはスペイン領からフランス領に移ることになり、その際、スペインはコロンブスの遺骨を他国に渡すまいとキューバへ移します。しかし1898年、今度はキューバが米西戦争によってスペインから独立したため、遺骨はセビーリャに帰されました。ところが1877年にドミニカのサント・ドミンゴ聖堂の下を掘っていた工事人たちがCristóbal Colónの名前が彫られた棺を見つけたため、ドミニカは1795年にスペインが持ち出しのは別人の遺骨で、こちらが本物だとの見解を貫いています。

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11.マウルブロンの修道院群

マイセン磁器
錬金術師は最初、黄金を作る秘法を知っていると言ったため、ポーランド王に監禁され、黄金を作るよう命じられた。だが、そんなことができる筈がない。だが当時、東洋から輸入するしかなく、白い黄金とも言われていた磁器を作ることに成功した。

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12.エッセンのツォルフェルアイン炭鉱業遺産群

石炭を蒸し焼きにして作る。精鉄に用いる。
石炭をただ燃やしたのでは、鉄、ことに鋼を製造する温度に達さない。コークスにすることによって、燃焼温度が上がるため、コークスは鉄鋼業に不可欠なものである。

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13.リガ歴史地区

琥珀
バルト海貿易の商品では毛皮と並ぶ贅沢品の一つ。太古、樹脂の多い針葉樹林におおわれていた、バルト海沿岸からロシアにかけて産出する。ヒントについては言わずもがな。

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18.ヴォルタ州、グレーター・アクラ州、セントラル州、ウェスタン州の城塞群

野口英世
1927年から翌年、自身も黄熱病で他界するまで、アクラ市内で研究を続けました。

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20.シャーロットヴィルのモンティチェロとヴァージニア大学


1909年(再度1912年)に尾崎行雄東京市長(当時)や高峰譲吉らが日米の親善を記念し寄贈した桜です。

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24.殷墟

ラストエンペラーこと愛新覚羅溥儀
溥儀は、辛亥革命後も紫禁城(現在の北京故宮博物院)に居住を許されていましたが、1924年に馮玉祥(ふうぎょくしょう)によって追われ、天津に移り住みます。羅振玉は1919年に日本から天津に帰国しており、溥儀の師となりました。この縁で、溥儀が満州国の皇帝となると羅振玉も招聘され、要職を歴任し、1940年に75歳で没しました。なお、彼の娘婿にして弟子であった王国維は、これに先んじて1927年、頤和園の昆明池に投身自殺しています。

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25.フエの建造物群

ミーソン聖域(My Son Sanctuary)
ミーソン聖域はヒンドゥー教を信仰したチャンパ王国の聖地であり、7世紀から13世紀にわたって建設された。近郊の都市ダナンのチャム彫刻博物館には、チャンパ王国の神像が数多く保存されている。

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26.アンコール遺跡群

アンドレ・マルロー
アンドレ・マルロー(1901-1976)は、アンコール遺跡の未発掘であった場所から女神像を一部フランスに持ち帰ろうとし、逮捕されます。その後、その経緯をもとに小説『王道』を書きました。マルローは、第二次大戦中に対独抵抗活動に参加し、そのリーダーであったシャルル・ド・ゴールが大統領になった時、文化大臣に任命されます。その時、門外不出だったミロのヴィーナスが日本で公開されました。

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27.ボロブドゥール寺院遺跡群 プランバナン寺院遺跡群

人為的に埋め戻した。より正確には、建設中に石材の運搬など使った土盛り部分を完成後に取り除かなかった。
メラピ火山の噴火であれば、火山灰のみならず火山礫なども飛んできて、壁面のレリーフを含め、建築物が相当の損傷を受けるはず。しかし、レリーフには雨風による自然の磨耗は進んでいるが、大きな損傷は見当たらない。修復の対象となった建築物の損傷は幾度かの地震によって発生したもの。

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28.バリ州の文化的景観、トリヒタカラナの精神を象徴するスバックの水利システム

2)の結ぶというのが正解です。
イカットは、バリから東方の小スンダ列島の島々で織られている紬織で、島によって、さらには同じ島の中でも集落によって、パターンやモティーフ、使われる色も異なります。織る前の糸(縦糸)の束を綿糸などで固く縛り、染色した際に、縛った部分には色が入らないようにすることから、このような手法で作られる織物をイカットと総称します。

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29.サンギラン初期人類遺跡

ジャワ原人です。
ジャワ原人は、コラムに記載されているように、1891年にインドネシアの中部ジャワ州のサンギランで発見されました。これに対して、北京原人は、1923年に中国の北京郊外の周口店で発見され、シナントロプス・ペキネンシス(Sinanthropus pekinensis)と命名されました。

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