世界遺産ブログ

世界の様々な地域の歴史・文化を専門とする教員が、貴方を世界遺産の旅へご案内します。

恵泉ディクショナリー

クイズのこたえ

1.パリ、セーヌ川の両岸

ナポレオン3世とセーヌ県知事オスマン
フランス第二帝政の皇帝に就任したナポレオン3世は、パリの衛生状態を改善するために、セーヌ県知事にオスマン男爵を据え、大々的な都市改造を行いました。入り組んだ街路に沿って密集した街区を切り開き、直線的で広い道路を通して、衛生設備の整った住宅を建設しました。凱旋門から放射状に広がる12本の道路や、オペラ座へまっすぐ延びる道路などが代表的な成果です。そのほか、緑地の整備や歴史遺産の発掘・保護なども行い、現在のパリの都市景観の基盤を作りました。

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2.フォンテーヌブローの宮殿と庭園

3.フィレンツェ
ルネサンスの発祥の地とされる芸術の町。かの有名なレオナルド・ダ・ヴィンチのほか、ミケランジェロやラファエッロなども、この町で若いころに修行を積みました。ロッソ・フィオレンティーノは「赤髪のフィレンツェ人」という意味のあだ名で、本名はジョヴァンニ・バッティスタ・ディ・ヤコポ。フィレンツェで活躍した後にローマに移住、その後フランスに招かれフォンテーヌブロー派の中心的な存在として活躍しました。
恵泉世界遺産ブログ「フィレンツェ歴史地区」

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3.フィレンツェ歴史地区

『冷静と情熱の間』
学生時代を恋人同士として過ごした阿形順正とあおい、二人はあおいの30歳の誕生日に、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラの上で再開することを約束します。順正は大学卒業後、フィレンツェで絵画修復士として活躍していました。映画では竹野内豊が演じています(あおい役はケリー・チャン)。
ブルネッレスキが建造した大聖堂のクーポラ、実は二重になっています。この内側と外側の間の空間に階段が設えられ、頂上まで登ることができます。現在は一般にも開放されています。

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4.ヴェネツィアとその潟

2.カルパッチョ
15世紀末から16世紀初頭にヴェネツィアで活躍した画家、ヴィットーレ・カルパッチョ。鮮やかな色彩でもって物語画連作を書くことを得意としました。《聖ステパノ伝》などが代表作です。料理のカルパッチョ、一説によると1963年にヴェネツィアで画家カルパッチョの展覧会が開催されたときに、画家の作品の色彩をイメージして名づけられたそうです。「カルパッチョ」の歴史は意外と浅いのですね。

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5.ケルン大聖堂

フリーメーソン団
元々、職人の同職組合というのは結束が固く、格式があり、都市においてはかなりの力を持っていた。正規の組合員になるには厳しい資格審査があり、入会儀礼もあった。その中で一部の石工組合の儀礼が発展し、政治的な意図もからんで秘密結社化したと言われる。世界中に団員がおり、歴代アメリカ大統領にもかなりの割合で団員がいた。

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6.ヴィースの巡礼教会

ラビオリ。ドイツではマウルタッシェと言う。
マウルタッシェは四角い生地の中に挽肉や野菜を入れた料理で、ラビオリのようにトマトソースをかけて焼いたものの他に、スープに入れたり(ちょっと水餃子風)、中身がホウレンソウだったり、ソースがカレー味だったり多彩である。専門店もある。

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9.ウェストミンスター宮殿

下院
現在では首相は下院議員からという決まりがあるが、これは20世紀になってから確立した慣行である。1902年まで首相を務めた第 3 代ソールズベリー侯爵が、上院議員で首相となった最後の例である。

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10.キュー王立植物園

約300種
イギリスはかつて氷河に覆われたため自生植物は約300種に過ぎない。氷河に覆われなかった日本の自生植物が4500種あるのに比べて、その少なさが際だつ。今日のイギリスの豊かな植物の種類はプラントハンターが世界に出かけて集めてきたものである。キューガーデンはその中心的な働きをした。

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11.ファウンテンズ修道院とスタッドリー王立公園

ペルシャ(現在のイラン)の中庭
修道院の中庭はクロイスターあるいはパラダイスと呼ばれています。本世界遺産シリーズの「アルハンブラ宮殿」の項で述べましたが、パラダイスという言葉はぺルシャ語のパエリデーザに由来します。古代ペルシャで生まれた中庭の庭園様式はイスラム圏では涼をよぶパティオに、またヨーロッパでは古代ローマの中庭(ペリステリウム)を経て、修道院の中庭に発展していきました。
イスラム庭園の華 アルハンブラ宮殿とフェネラリーフェ離宮(スペイン)

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13.エス・エスコリアルの修道院と遺跡

(スペイン)ハプスブルク家
スペイン・ハプスブルク家による王朝は16世紀初めから17世紀末まで200年間続いた。カルロス2世が1700年に死去したことで途絶えたが、これは翌年に勃発するスペイン継承戦争の原因となった。

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14.グラナダのアルハンブラ

ペルシャ(現在のイラン)
226年に成立したササン朝ペルシャでは壁に囲まれた、水と樹陰のある中庭が発達しており、この中庭はパエリデーザ(英語のパラダイス)と呼ばれていた。642年にペルシャを征服したイスラム勢力は、その庭園様式を独自の教義に取り入れて普及して行った。

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16.自由の女神

フランス、日本など
フランスから贈られたお礼にアメリカは1889年、フランスへ4分の1の模型を贈呈しました。高さ11.5メートル、セーヌ川に架かる、グルネル橋の下の中州に飾られています。
1998年、「日本におけるフランス年」にお台場海浜公園にこのパリの自由の女神像がやってきました。好評だったため、返却後、フランスで複製が制作され2000年お台場に。レインボーブリッジを背に建っています。ほかにもラスベガスのホテルやデンマークのレゴランドにも。世界各地の自由の女神像を探してみましょう。

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17.ヨセミテ国立公園

シエラクラブ
1892年にジョン・ミューアを初代会長にカリフォルニア州サンフランシスコ市に創設された。ヘッチ・ヘッチーダムの反対運動をはじめ、自然保護を巡るアメリカの環境運動を牽引してきた。反公害運動から出発した日本の環境運動との違いも調べてみよう。

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18.ウォータートン・グレイシャー公園

ビャウォヴィエジャの森(ベロヴェーシの森)、イグアスの滝など
ビャウォヴィエジャの森はポーランドとベラルーシを跨ぐ世界遺産、イグアスの滝は南米三国、パラグアイ、ブラジル、アルゼンチン)を跨ぐ世界遺産です。他にもあります。調べてみましょう。

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19.チチェン・イッツァ古代都市

チャクモール
死んだ戦士を象徴するといわれるチャクモールは、人から神へ供物を受け渡す仲介者の役割を担うと考えられていました。古典期末期(10世紀~)からスペイン征服期まで作られていたチャックモールは、メソアメリカのほぼ全土に分布しており、トルテカと、その後、トルテカの後裔を名乗って台頭したアステカの覇権がいかに強大であったかが伺えます。

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21.ポトシ市街

たばこ、酒、カコの葉
今も、ポトシの鉱夫たちは、朝、採掘場所に行く途中でティオに挨拶をし、夕方にはティオにお礼を言って帰宅します。その際、ティオにたばこをくわえさせ、酒を飲ませることでティオの機嫌を取るのだといいます。彼らはこの間、昼食もとらずに、覚醒・疲労回復作用をもつコカの葉を口いっぱいに詰め込み、崩落事故などの恐怖を忘れ、疲労や空腹を癒しながら夕方まで働き続けると言われています。
現在、ポトシ観光で人気を集めているのが、鉱山の中に入るツアー。このツアーに参加する人は、あらかじめ、ふもとの町でこの3品を必ず購入し、入坑の際に鉱山作業者に手土産として渡すよう促されます。

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22.平泉

「おくのほそ道」
俳人松尾芭蕉は弟子の河合曾良とともに、元禄2年(1689)3月に江戸深川を出発し、東北と北陸をめぐって元禄4年江戸に帰った。「おくのほそ道」は深川出発から同年8月の大垣までの行程の紀行文集である。題を「奥の細道」と書く場合もあるが、芭蕉自筆題箋は「おくのほそ道」となっている。

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23.知床

神の鳥(カムイチカップ)

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24.琉球王国のグスク及び関連遺産群

福州

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25.万里の長城

山海関の守将のほうから降伏した。
このとき山海関を守っていた明王朝の将・呉三桂(ごさんけい)は、自らの主である明王朝が李自成(りじせい)に滅ぼされたことを知ると、かつての主君の仇を討つことを目的として、それまで戦っていた清軍に投降しました。一説によるとその理由は、呉三桂が、陳円円という女性を李自成軍に奪われたことに激怒したためであるといわれています。

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26.北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群

南京
明王朝の初代皇帝である洪武帝は、応天府(現在の南京)にて皇帝となりました。皇太子は洪武帝より先に亡くなったため、皇太子の子、つまり洪武帝の孫の建文帝(けんぶんてい)が後を継ぎました。ところがこれに対し、洪武帝の4男である朱棣(しゅてい)が挙兵し、南京を攻め落として皇帝に即位します。第3代皇帝、永楽帝です。彼は、首都を自分の本拠である北平(現在の北京)に移し、自らの居城として紫禁城を建造したのです。

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27.天壇

袁世凱
孫文から中華民国臨時大総統の位を譲り受けた袁世凱は、1915年、天壇にて皇帝に即位しました。また彼は、前年の1914年冬、天壇で祭祀を行っています。すでに皇帝になる意思が明確にあった証左であるといわれています。

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28.王立展示場とカールトン庭園

ジェームズ・クック(1728-1779)
通称キャプテン・クック。1766年、エンデバー号を指揮して第1回目の航海に乗り出し、1770年にオーストラリア東海岸に上陸している。第3回の航海でハワイ島を発見するも、先住民との争いで命を落とした。

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