最南の「紫禁城」-フエの宮殿-(ベトナム)

2013年06月03日

1945年3月9日夜半のこと、「突如、銃声が天に轟」くのを聞いた宮中官房長官ファム・カク・ホエは、革命の勃発かと驚き、銃声の静まるのを朝まで待った。紫禁城に出かけてみると、門は閉ざされていて、独立を告げる布告が城門や城壁に貼られていた。ベトナム中部の都市フエでの出来事である。「独立」の現実は、第13代バオダイ帝を操る勢力がフランスから日本へと替わるに過ぎなかった。半年も経たずに日本軍が撤退すると、バオダイ帝は退位し、9月2日にはホーチミンが再び独立宣言をした。その後、事態は急変し、フランスの軍事介入があって、3ヶ月後にはインドシナ戦争が始まる。王宮の破壊も始まる。

世界遺産に登録された「フエの建造物群」の歴史を辿ってみよう。「建造物群」の中核は王宮である。王宮の基礎はグエン朝初代ジャロン帝の時代に築かれた。つまり、19世紀初頭以降の比較的新しい建造物である。フエの王宮は北京の紫禁城を小さくしたような格好をしていて、実際に、第2代ミンマン帝の時代から「紫禁城」と呼ばれた。周囲1.2キロ余りの方形の空間はグエン朝の歴代皇帝の住まいであったが、先に登場したファム・カク・ホエですら「まだ全部覚え切れない程」複雑な構造をしていたという。

紫禁城といえば、一般には中国の北京にある王宮であるが、明朝政府は南京にも紫禁城を建設したから、フエの紫禁城も含めると、少なくとも3つの紫禁城があったことになる。そのなかで、フエの紫禁城は最南に位置する。三重の城壁がめぐらされていて、南面に位置する午門を通って、公式式典や接見の場である太和殿に至るところなどは、北京とよく似ている。

グエン朝は、広南グエン氏が、西山グエン氏による「タイソンの乱」を平定して開いた王朝である。そのとき、フランス人宣教師アドラン司教の力を借りた。司教は遠征軍を組織するために、武器弾薬を調達し、兵を募集して、みずから戦ったものの、1799年にクィニヨン城包囲作戦の最中に死去した。勝利者となったグエン・フック・アインはフエで即位し、年号をジャロンと定めた。ジャロン帝によるグエン朝の始まりである。王朝の最初から植民地化の種を宿していたと言える。王宮の建造物も時代が下るにつれフランスの影響を深めていく。


フエの郊外には歴代皇帝を祀る廟が点在する。比較的保存状態のよい第2代ミンマン帝(1820-40)と第12代カイディン帝(1916-25)の廟を較べると、時代の変化が分かる。ミンマン帝陵が東アジアの伝統様式を比較的よく保っているのと対照的に、カイディン帝廟は西洋風の様式を取り入れ、内装に大量のビール瓶破片を用いるなど相当に斬新である。カイディン帝時代には、科挙試験が廃止され、公文書の文字が漢字から「クォック・グー」(アルファベット文字)に変更された。カイディン帝が崩御すると、「ラスト・エンペラー」バオダイが後を継いだ。

高濱俊幸(イギリス史、ヨーロッパ政治思想)

フエの王宮の午門(中央の門から太和殿が見える)

カイディン帝廟の等身大座像と棺