環大西洋奴隷貿易の世界遺産‐ケープ・コースト城塞

2012年11月26日

366年(1501-1867)にわたり、推定1250万人のアフリカ人を新世界に強制移住した環大西洋奴隷貿易はスペイン、ポルトガル、オランダ、イギリス、フランス、デンマーク、スウェーデン、北アメリカを含むヨーロッパ系植民者が関わり、その力関係、戦争の勝敗で主導権が移り変わった。これほど多くの国々が参与したこの負の世界遺産は、ナチスのホロコーストや広島、長崎の原爆投下のように民族根絶の執念や戦争の憎悪によって生まれたものではない。金銀を始め、砂糖やコーヒー、チョコレート、たばこ、綿花、藍など、おいしいものが食べたい、贅沢品を調達してもうけたいという欲望がその動機であった。遠くの国のもうけ話に投資するグローバルな経済活動、「抑制不能な」市場の力が安価で生産性の高い集団労働を求めた結果が悲惨な人身売買とアフリカ人の大規模な移動と離散を生んだ。

奴隷船は風と海流が動力であったため、環大西洋奴隷貿易には北と南の二つのルートがあった。三角貿易で知られるのは北ルート、時計回りに今日のセネガル、ギニア、コートジボアール(象牙海岸)、ガーナ、トーゴ、ベナン、ナイジェリアから奴隷をカリブ海地域、北アメリカへ運んだ。反時計回りの南ルートはおもに西中央アフリカからブラジルの過酷な砂糖プランテーションへと奴隷を運んだ。ブラジルの奴隷到着数は総数の三分の一に上る。

北ルートを形成する西アフリカ、ベナン湾沿い500キロに残る60箇所の城塞のうち、ケープ・コースト城塞はガーナ共和国に残る最大の奴隷貿易遺構(他にエルミナ城塞も世界遺産)。ガーナは、1957年にサハラ以南のアフリカでは初めてイギリスからの独立を達成した。かつてこの地域は金の産出で栄えたアシャンティ王国が統治していた。(内陸に残る神殿などのアシャンティ族の伝統建築群は世界遺産) 黄金海岸と呼ばれるこの地に、15世紀ポルトガルが貿易拠点を建設し、その後オランダ、スウェーデンへと所有者が移った。強固な城塞は権益をめぐる奪い合いの凄まじさを伝えている。停泊地と商館を兼ね、後背地との商取引が行われた。(図1)1664年にはイギリスの手に渡り、7年戦争(1756-1763)でイギリスがフランスに勝利し大西洋地域の覇権を掌握してからは、イギリスの奴隷貿易の中心であった。城塞の地下牢には最大1500人もの奴隷を泊め置いた。窓も無い壁や床の石には繋がれた奴隷たちが鎖で残した無数の傷が刻まれているという。目的地までは中間航路と呼ばれさらなる劣悪な環境が待っていた。(図2)

2009年にはオバマアメリカ大統領が夫人の家系のルーツといわれるケープ・コースト城塞を家族で訪れ話題になった。アメリカ合衆国にあたる地域へは総奴隷到着数では総数のわずか4パーセントにも満たないが、アフリカ系アメリカ人の高い失業率にみられるように、負の遺産を今日も背負い続ける。アメリカ南部諸州において、かつての奴隷の子孫が市民権を要求する運動(公民権運動)が奴隷解放後100年近くもたってやっと広がったこともキング牧師の名とともに思い出す人も多いだろう。

一方奴隷たちが運んだアフリカ文化は、国民国家の発想を越えて環大西洋地域の文化を大きく変え今日に至る。たとえば人種、宗教、帰属意識といった根源的な問いを投げかけるカリブ地域出身の思想家やノーベル文学賞作家たちの名が挙がるだろう。奴隷貿易の負の遺産を語り継ぐと同時に環大西洋世界の歴史が繋ぎ、紡ぐ可能性にも目を向けなくてはならないだろう。

杉山 恵子(アメリカ史)

図1

図2