エル・エスコリアル(スペイン)

2011年10月01日

世界遺産として多くの観光客を集めるエル・エスコリアル(Real Monasterio de San Lorenzo de el Escorial)は、マドリッド西北50キロに位置する修道院である。厳密には、修道院というだけでなく、教会、王宮、神学校、図書館を含む複合施設である。マドリッド市内で既に標高650メートル程であるが、エル・エスコリアルが建つ場所は1000メートルを超える高台であるから、夏場も幾分涼しく、今日では避暑のための別荘が建ち並ぶ。
エル・エスコリアルはスペイン国王フェリペ2世の命によって建てられた。建設は1563年に始まり、1584年に一応の完成を見ている。1561年にトレドから遷都したばかりのマドリッドでは、新都の建設が急がれていたはずである。市内では、イスラム時代の王城(アルカサル)が改築されて、すでに王宮として使用されていた。フェリペは複数の王宮を季節によって使い分けていて、春をアランフェス、夏をエル・パルド、秋をエル・エスコリアル、冬をマドリッドの王宮で過ごすというのが、基本パターンとなる。

王宮の中でも最も重要な部屋は王の寝室であるが、エル・エスコリアルにあっては、王の寝台からバルコニー越しに田園風景が見渡せる一方、別の方向にはバシリカ聖堂の主祭壇を見ることができた。また、寝室に隣り合う書斎は、小さなオイルランプを頼りに夜遅くまで国務に励んだフェリペの面影を偲ばせる。

フェリペは1527年に生まれ、1556年にスペイン王位に就き、1598年に亡くなった。フェリペの時代はいわゆる「大航海時代」にあたり、ポトシ銀山の採掘も1545年に始まり、スペインは黄金時代を迎えていた。日本史の時代区分で言えば戦国から安土桃山時代である。余談であるが、イエズス会宣教師と共に派遣された天正遣欧少年使節がフェリペに謁見したのは、1584年のことである。デ・サンデの『天正遣欧使節記』(1590)によれば、使節一行はマドリッド市内の王宮で謁見を済ませた後、完成したばかりのエル・エスコリアルを見物して、「全ヨーロッパにおいても、もっとも豪奢なものとせられる建造物の一つ」に目を見張った。
さて、ここまではスペイン史に属するが、フェリペはイングランド史とも関わりが深かった。当時イングランドはチューダ王朝であったが、ヘンリ8世の最初の后キャサリンはスペインから輿入れしている。いまだ弱小であったイングランドにとって、大国スペインとの結びつきを深めるのは、国家利益にも適ったのである。そして、二人の間に生まれたメアリは、王位に就いた翌年の1554年に、当時皇太子であったフェリペと結婚した。これによって、フェリペは「配偶者としての王(キング・コンソート)」という地位をイングランドで得た。当時ヨーロッパは宗教改革の渦中にあったが、両王は反宗教改革運動に熱心であった。
ところが、宗教弾圧故に「ブラディ・メアリ」の異名をとった女王が1558年に崩御して、歴史に名高いエリザベスが即位すると、両国の関係は次第に冷却していった。そして、1588年の無敵艦隊(アルマダ)によるイングランド侵攻作戦へと発展していく。出撃にあたってフェリペは、家族と交代で、毎日3時間、エル・エスコリアルで戦勝を祈願したと伝えられる。もっとも悪天候が災いしたこともあって、無敵艦隊は壊滅してフェリペの願いは潰えてしまう。敗戦の知らせに大いに落胆したフェリペは、まもなく再侵攻を決意し、無敵艦隊再建のためにエル・エスコリアル所蔵の銀製の食器と燭台を溶かして資金源とすることも覚悟したという。
その後、イングランド征服がならないまま10年の歳月が流れ、フェリペは遂にエル・エスコリアルで崩御した。その亡骸は今も礼拝堂地下の霊廟に安置されている。

高濱俊幸(イギリス思想史)