実用教育の場から社会的承認の場へ

  今から43年前の1969年に発表された『大学の可能性』のなかで永井道雄が記した文章である。
「蟹の横這い」と揶揄されたように永井は大学、ジャーナリズム、政治の世界の間を自在に往来した。永井の仕事を改めて辿ると、時に離れた地点から大学を省みる視点があってこそ、教育や研究の世界の内部にいては見えにくい、しかし、大学が本来果たすべき社会的使命について気づけるのだと思わせる。
文部大臣まで務めた永井とは比べるべくもないが、筆者も大学で教えつつジャーナリズムの仕事をこなしてきた。そこで本稿では一人のジャーナリストとして、実際に関わった個々の大学の立場を超えて大学と大学生の置かれた状況全般を省み、気づいた幾つかのことを個人的見解として書いてみたい。

●少子化時代の大学教育

  戦後、GHQの指導下で新制大学制が敷かれ、一県にひとつずつ設置された国立大学を始め、多くの大学が新設された時、大宅壮一はその氾濫ぶりを揶揄して「駅弁大学」と呼んだという。しかし、その時、大学数はせいぜい200校前後だったと聞くと驚きを禁じ得ない。なにしろ2010年に大学数は778校にまで増えた。急行列車が停車し、駅弁を販売している駅の数より増えた大学は何と呼べばいいのか。
大学生数(大学院を含む)も288万7千人となった。こうした増加傾向が18歳人口と比例していないことはしばしば指摘されている。世代人口で多めだった団塊ジュニアの最終ランナーが一八歳になった時の人口が二〇五万人。その年の大学進学者数は五五万人だった。以後、一八歳人口は減少を続けてきたが、大学生数は増え続け、二〇一〇年には一八歳人口が一二二万人に減っているのに進学者数は六二万人になった。少子化が危惧される中、なぜか大学は肥満し続けている。
その背景にあるのは進路の一極集中化だ。高卒就職者数は九二年に六六万人いたのが、二〇一〇年には一六万人に減った。九二年には二五万人いた短大進学者も二〇一〇年には七万人に、専門学校進学者数も同三六万人から二七万人に減っている。こうして進学率全般が増えている中で、更に「大学一人勝ち」状況が用意され、増加する大学定員を支えている。
原因はひとつではない。たとえば厚労省の平成二一年の賃金構造基本統計調査によると大卒(大学院卒)と高卒の賃金差は年齢が上がるにつれて広がり、ちょうど高校生の親の年代である45~49才男子になると年収換算で約200万円の違いとなる。大学1年間の学費が私立文系で約100万円であることを思うと、この年代の大卒者と高卒者の収入の差は二人の子供を大学に通わせられるか否かの分かれ道になる。高卒者の子女が再び高卒になる流れが固定する循環に陥らないために、なんとしても子供を大学に進めたい。賃金格差状況を身近に感じている親世代がそう望むのは自然な感情だろう。ちなみにこの賃金格差は平成16年と比較するとむしろ拡大している。
  一方でそこには大学側からの働きかけもある。若者人口減少にもかかわらず新規開設を続けた大学は、定員充足を求めて積極的な広告展開を行うようになった。吉見俊哉『大学とは何か』(岩波新書、二〇一一年)によれば、これは「大学に入りたい膨大な若者たちの需要に大学が応える構造から、学力や将来の志望はともあれ大学に進学はしておくという者を大学が自己努力によって創出していく構造への転換」であり、「商品のマーケティングと同じ論理が大学進学者市場の掘り起こしにも広がっていったことを意味している」と書く。
とはいえ掘り起こしは易くない。今や努力も虚しく全入状態に陥り、定員割れを喫する私立大学数が全体四割に及ぶ。定員充足が可能か否かで大学は二分されつつある。
それみたことか、必要のない大学を増やしてきた結果だ。こうした危機的状況への最も即効的な処方箋は大学の淘汰なのだ。そう考える人は少なくない。タクシーの台数が増え過ぎるとタクシー業界自体が立ち行かなくなるので台数を減らすのと同じ理屈だ。しかし、筆者はそうした手段に至るまでに考えておくべきこと、手を打っておくべきことが多く残っているように思う。

●意欲格差社会と大学教育

  教育の分断状況については苅谷剛彦が『階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲(インセン)格差(ティブ・デ)社会(バイド)へ』(有信堂高文社、二〇〇一年)でいち早く指摘していた。苅谷は成熟した「豊かな社会」における不平等の現状をテーマに掲げて実施された1995年のSSM調査(社会階層と社会移動全国調査The national survey of Social Stratification and social Mobility)を用いて、父親の職業によって進学する高校のタイプに違いが生じている事情を析出してみせた。農林漁業や単純労働に従事する世帯の子息の場合、高校に進学したとしても職業科が多い。普通科に進学した場合をみても、大学進学率の高い「進学校」への入学チャンスは専門・管理職や事務・販売・サービス職の父親を持つ生徒に比べて大きく開かれているとは言えない。高校進学率は60年代、70年代を通じて57.7%から94%にまで急増したが、その実質内容において進学機会は社会階層の格差をそのまま反映させつつ拡大されていった。そして学習意欲においても格差が生じる。初めから進学コースに乗る機会が失われている状況では学習する気になれない。苅谷の調査によれば母親学歴と子供の学歴の間には相関性が認められ、低学歴の母親の子供は学習意欲が低いという。
そこに苅谷はひとつの逆説を見る。偏差値の偏重や、過剰な受験競争を避けさせようとした教育政策の中で、かえって教育の格差、意欲格差状況が進んだ。たとえば競争を排除すべく小学区制を取り入れ、高校全入運動のメッカとなった高知県で、学力格差が広がり、更に「いい生徒」が私立高に逃げる「ブライト・フライト」現象が起きている事情を苅谷は重視する。受験競争という外部の力が全般に緩むと、それを補うように格差化を進行させる自発性が生じ、結果的に格差は一段と深刻になるーー。
  苅谷がそうした分析をした高校教育の状況は、震源から遠くに伝わってゆく地震波のように、時間差を伴って大学に及んでいる。少子化のなかで大学定員のパイが増えているわけで、ここでも全般的には競争が緩む条件が揃いつつある。受験勉強に縛られることなく個性を伸ばせるようにとAO(アドミッション・オフィス)入試などの採用も進んだ。しかし、それは格差をむしろ色濃くした。未だに有名大学は高い競争倍率を維持し、私大の場合、志願者上位二〇校が総志願者数の半数を獲得している寡占状態だ。高校が二極化を遂げた轍を大学も踏んでいる。
なぜ競争はしぶとく残るのか。筆者は倍率が高い=難関校であるということ自体が、多くの生徒に受験を動機づけているからなのだと考える。たとえばAO入試も一般入試では手が届かない難関校に入る手段として選ばれている限りは、競争をうまくしのいで勝ち抜くための代理的な方法として機能しており、受験勉強から逃れることはできても競争をなくすことに繋がっていない。
  入学が難しい大学は難しいから選ばれ、難関校になる。そんな同語反復が生じるのは、試験に勝ち抜くことが、単にそれで得られる結果――大学で学ぶ権利を獲得することーーから求められているのではなく、自分の能力が認められ、更に自分が存在していてよいのだと安心する自己承認の感覚に繋がるからだと筆者は思う。承認を求めているからこそ競争への意欲が生じる。マズローの欲求階層説を持ち出すまでもなく、承認への欲求は生理的欲求や安全確保への欲求の充足後に求められる高次の欲求である。競争に打ち勝つ能力の持ち主であることが客観的な尺度の中で実証される入試はそうした承認欲を満たす場になるがゆえに難関校が受験先に選ばれ易くなるのではないか。
  自戒を込めて書きたいが、自分自身が大学受験生であった頃のことを思い出しても、競争に勝つこと以外の動機をどこまで持っていたかは疑わしい。もちろん学部や学科の選別では、その学びの先に広がる世界への憧れがあった。しかし同じ学部・学科を有する大学のどれを受けるか選ぶ段階では、より困難な競争に打ち勝つ必要がある大学ほど価値があると考えていた。筆者の世代は少子化前の時期、過酷な受験戦争の中ですっかり洗脳されていたとも言えるが、そうした価値観は18歳人口が減った今もなお継続しているようにも思う。依然として競争以外に承認への動機づけを、私たちの社会は若い世代に与えられていない。そこに社会の、そして大学の問題点を筆者は見たい。
  一方でそうした承認欲求を満たす進学のレールに乗っていない子供たちの社会階層がある。進学率70%を境に高校を「進学校」と「多様校」に分けて調査を行ったリクルートの進学センサスは苅谷の指摘した意欲格差説を裏付ける。二〇一一年発表の調査によると「進学校」では高校入学時に既に卒業後の進路が決まっている。これは既に競争のレールに乗っており、進学に意欲的である結果だ。それに対して、多様校ではそうした進路決定が高校二年の4~6月にずれこんでいる。「最終的に入学した大学の名前を初めて知った」時期も「進学校」では高校1年の10~12月なのに対して「多様校」は大学については高校二年の7~9月、専門学校、短大に進んだ生徒に関しては更に進学先に具体的焦点が結ばれる時期が遅くなる。
「多様校」とは大学進学以外に多様な進路を選ぶ生徒が多いからその名がついているが、大学かそれ以外かの進路の決定は遅く、当然、進学を信じて疑わない意志の強靭さはない。そうした揺れる進学意志を持つ生徒に対して、先にも書いたが大学側の広報努力などにより生徒の進学意欲が掘り起こされる。しかし全入が予想される大学を受験する場合には、競争倍率が存在しないので勉強に励む動機自体が存在しないし、合格によって自分が社会的に承認されたという実感を持つこともできない。こうして意欲格差が承認格差に繋がってゆく構図が大学にもあり得る。

●絶望しつつ、幸福でありえる社会とは

総定員削減は強制的に倍率を発生させるという意味では承認を導く。しかしそれは大学で学ぶ機会を狭める以外の何者でもないし、受験戦争を更に過熱させるという別の問題も導く。そしてなによりも競争以外に学びへの動機づけができていない社会状況自体の問題を不問にしてしまう点は気になる。
朝日新聞と河合塾の共同調査による「ひらく大学」(二〇一一年7月公表)では国公私立を総合した退学率が7%に及ぶことを報告している。もちろん経済的理由で退学を余儀なくされるケースもあるが、そこには意欲不在の問題も影を落としていよう。競争によって意欲を喚起された者は競争終了時点で意欲を消失させるし、はなから意欲を持てぬまま大学に入ってしまう者もいる。
  それでも入れればいいと思うのは間違いだ。大学は今や入学しただけで「シード権」が獲得できる場所ではなくなっている。先に賃金構造基本統計調査の結果を示し、親が子供に大学卒の学歴を望む傾向の背景説明を試みたが、そのデータは当の大学生自身にとっては別の読み方も可能だ。若年層では大卒とそれ以外の賃金差は刻々と減っている。少なくとも経済的には大学卒は今や有利な人生をスタートさせるためのパスポートではないのだ。
こうした事情が大学で勉強し続ける意欲を脆いものにしている。「あくせく勉強してよい会社に入っても将来の生活に大した変わりはない」と感じる結果、学校での成功を諦め、現在の生活を楽しもうと方向転換をする。なぜ「将来のことを考えるよりも今の生活を楽しみたい」と思うのか。苅谷はそうした選択がむしろ自己有能感をもたらすのだと説明する。筆者はそれについても承認の問題を視野に入れて検討してみたいと思う。
古市憲寿は『絶望な国の幸福な若者』(講談社、二〇一一年)で、若い世代の「不安があるが、不満はない」という意識に注目した。内閣府「国民生活に関する世論調査」によると、2010年時点で二十代男子の65.9%、同女子の75・2%が現在の生活に満足していると答えている。しかし同じ調査で「生活の中で悩みや不安があるか」と尋ねられると彼らのうち63・1%が不安だと答える。
  こうした、不安であるが、幸福でもあるとする心理はいかに成立するのか。古市が重視するのが若い世代の相互承認への希求だ。長い時間スケールで見ると格差化は確かに深刻で将来への不安も色濃くある。しかしとりあえずはアルバイトでなんとか食い繋げてしまう年頃の若者にとって、より深刻なのは自分が他人に認められてないことなのだ。それゆえに相互承認が得られれば不安はあってもそこそこ幸福に感じる。「今の生活を楽しみたい」というのは他人に承認され、他人を承認する相互の繋がりを築くことだ。たとえば街頭テレビモニターの前に集まり、ワールドカップの日本代表に声援を送る若者たちにとって大事なのは、同じ日本人として繋がったという「幻想」の連帯感を満喫し、相互に励まし、慰めあう幸福感に浸ることだ。こうして相互に承認しあえる実感が持てることで、自分自身にいい感じ=苅谷のいう有能感を覚える。東日本大震災以降の「絆」への指向、そして脱原発デモの盛り上がりもこうした文脈の中にあるというのが古市の分析だ。
  相互承認は今やツイッターなど、つながりのメディアによってネットワーク上でも可能になった。「絆」が二〇一一年の世相を表す「今年の漢字」に選ばれすらした。しかし、こうした「絆」の偏重について斎藤環は警戒する。絆が「「世間」は見えても「社会」は見えにくくなる」認知バイアスを生じさせると斎藤は考え、それを「絆バイアス」と呼んだ。(毎日新聞「時代の風:「絆」連呼に違和感」12月11日)
  確かに「絆」を連呼する状況とは裏腹に3・11以後の日本社会は軋み始めている。福島産農作物や被曝した瓦礫の受け入れを巡って被災地とそれ以外の地域で相互に傷つけあう状況すら招かれた。「絆」は自分たちの「世間」の中で互いの主張を貫くためにしか機能せず、実は連帯よりも分断を招く。そうした歪みを見えにくくしているのも「絆バイアス」なのか。斎藤は「社会やシステムに対して異議申し立てをしようという声は、絆の中で抑え込まれてしまう。対抗運動のための連帯は、そこからは生まれようがない」と書く。

●道具的人材の養成を越えて

こうした斎藤の危惧が最も該当するのは、そもそも承認の経験を持てずに大学に入り、その不在の深さゆえに一層、うすっぺらな相互承認指向を強めている若者たちではないか。こうした状況に対して大学は、入学までの意欲=承認格差状況を清算し、それ自体が承認の機会を供給する場になる必要があるのだと思う。
たとえば新しい大学像を提示するに当たって吉見は「ポスト中世大学」という概念を用いる。近代的大学が出来る前の中世には学生や教師が多数の都市の間を絶え間なく移動しつつ、領域を越えて結ばれることで発展した大学があり、そうした大学こそが都市の自由、学問の自由の源泉となった。
  今もまたグローバル化とネットワーク化のなかで国家を超えたひと、もの、情報の移動がある。であれば移動性を基盤とした中世大学をモデルとし、それを現代的に蘇らせることに価値があるのではないかと吉見は考える。
たとえば中央教育審議会大学分科会では日本と外国の大学間におけるダブル・ディグリー等、組織的・継続的な教育連携関係の構築に関するガイドラインを提示した。国境や文化的領域を超えて知を開いてゆくこうした試みは、しかし、難関校に限らず、大学の世界で広く採用されるべきではないか。グローバル化、ネットワーク化は今や生産から消費まで生活あらゆる分野で進みつつあり、それに適応できる人材を輩出することは全ての大学に要請されることになるだろう。
  とはいえ、ただ人材輩出が出来ればそれで良しというわけではない。過去に大学は実業界からの要請を受けて専門家養成の方向に変化してきた。しかし、ただその時々の社会の求めに応じて即席の対応をするだけの大学は、社会に対して賞味期限の短い「道具的」な人材を供給するだけのサービス産業に成り下がる。
そうならないために再評価されるべきなのが教養教育ではないか。たとえば南原繁は1949年7月、新制東京大学の入学式に登壇し、式辞のなかで「新制大学の成否がかかる眼目」として一般教養課程の導入を挙げていた。「近代科学と人間性をその分裂から救い、大学をその本来の精神に復すにはいかにすべきであるか。それにはまず、個々の科学や技術が人間社会に適用される前に、相互に関連せしめて、その意義をもっと総合的な立場に立って理解することである」「これが時代の教養であって、われわれが日常の生活において、われわれの思惟と行動を導くものは、個々の科学的知識や研究の結果であるよりも、むしろそのような一般教養によるのである」(「大学の再建」『文化と国家』東京大学出版会1957所収)
こうして「駅弁大学化」の始まりの時期に謳われていた教養教育の重視の姿勢は定着せず、復興から高度経済成長期に大学は一段と専門家養成教育としての色彩を強めてゆく。そんな時期に書かれたのが冒頭に引いた永井の『大学の可能性』だった。
  そこで、永井は約20年前に述べられた南原の教養教育論を彷彿させる議論を持ち出す。
「教養は、その設計がもっとも困難な部門です。今日の日本の教養課程が、いちじるしく形式的であり、高校の課程のくり返しや、入門学が多いのもこのためです。教養はむしろ人間と人間が接触する場所、また自由に考え、生きることを学びとる場であり、この角度から根本的改造を行う必要があります」。
当時の社会情勢を踏まえつつ大学を省みた永井の指摘は今なお通用するし、今だからこそ真摯に受け止められるべきだと筆者は考える。世界や自然の成り立ちの不思議と格闘しつつ育まれて来た人類の智慧に広く触れて学ぶ教養教育を通じて、学生に人間として生きてゆくことへの自信を与える。自信の醸成を経て承認の供給源として大学が機能するように方向付ける教養教育の再定義こそ、承認不在の現代社会で改めて行うべきものではないか。
  マズローによれば承認の欲求が満たされてこそ、次に自己実現への欲求が生じるとされる。大学生は大学が供給する社会的承認を足場に、向こう三軒両隣やツイッターのフォロワー達だけしかカバーしていないまやかしの絆ではない、本当の社会的連帯につながる絆作りを求め、グローバル化、ネットワーク化する新しい社会に向って、批評的かつ建設的に働きかけるようになる。そうした作業を通じて自己実現を果たしてゆく主体的な人間を世に送り出す場に大学が変わるーー。社会情勢への適合を求める技術論として語られがちな大学改革だが、その根本に豊かな未来を築くことができる教育とは何かという根源的な議論が踏まえられるべきであることは言うまでもない。

  たけだとおる
一九五八年東京都生まれ。国際基督教大学大学院比較文化研究科博士課程修了。評論活動の傍ら東京都立大学、東京大学先端科学技術研究センター、恵泉女学園大学などでメディア論を講じてきた。『流行人類学クロニクル』(サントリー学芸賞)など著書多数。近著に『私たちはこうして「原発大国」を選んだ』がある。