しなやかに凛として生きる

客室乗務員から旅する写真家へ転身
世界を飛び回り、瞬間を形に残す

写真家
在本 彌生さん

― Profile ―

人文学部 英米文化学科 1991年度卒
(現 英語コミュニケーション学科)

1992年5月、アリタリア-イタリア航空に入社。
2003年、初個展。2006年、初写真集を出版後アリタリア航空を退職。
写真集『MAGICAL TRANSIT DAYS 』(アートビートパブリッシャー)、『わたしの獣たち』(青幻舎)、『熊を彫る人』(小学館)。

20代後半、次のステップに悩んでいた私
乗客の一言が大きく変えた

「あなたみたいにいろいろなところに行く人は、写真をやってみたらいいよ」

アリタリア航空で客室乗務員をしていた私にそうアドバイスしてくださったのは、機内でたまたま目の前の席に座ったお客様でした。日本からイタリアまでのフライトは約12時間。長時間のため乗客とちょっとした世間話をすることもあったのです。帰国後、その方が勧めたコンパクトカメラを購入。これが写真家としてのスタートとなりました。

客室乗務員としてイタリア、インド、旧ソ連を飛び回る日々。各地では次のフライトまで時間があるときもあったので、一人で陸路の旅に出ていました。強烈だったのはモスクワ。90年代前半、行くたびに貨幣価値が下がり、外での食事もままならないので、よく日本から食材を持ち込み自炊していました。マイナス30度の街角で老婆が物々交換のために立っている姿を見て、世の中の矛盾を感じました。あの時の経験は、今のものの見方に根付いています。

仕事内容を一通り吸収して、「私はこのまま定年までこの仕事を続けていくのだろうか」「次のステップとして、何か積み重ねて形にすることができたら」と考え悩んでいた20代後半の出来事です。

"書く喜び"と"イタリア"
大学で出会い、仕事へとつながった

旅は子どものころから好きでした。船会社を営む父は国内外を問わず出張が多く、小さなころは一緒に付いて行くこともありました。中学卒業時は一人で小笠原諸島の父島へ。これが初めての一人旅。知らない環境に身を置くことも刺激的ですし、道中や旅先で知り合った人と話をすることも楽しかった。語学力をつけたくて高校生のときは夏休みに短期でアメリカに留学しました。

大学時代はラクロス部を創設。合宿でアメリカ・ペンシルベニア州に2度ほど行きました。4年制大学1期生として、すべてにおいてセルフビルドだった点は自分に合っていたと思います。
また、当時、故・森田進先生の国語表現の授業で小説を書いたことも印象深く記憶に残っています。子どものころ書くことが好きだったのですが、しばらく遠ざかっていました。授業をきっかけに「書くことに飢えていた」と実感。今、写真だけでなくエッセイの仕事もしていますが、大学で書く喜びに再会したことが影響しています。

当時、映画も好きでよく観ていました。イタリアに興味を持ったのは、3年生のときに観た『ニュー・シネマ・パラダイス』がきっかけです。イタリア語を学び始め、さらに他のイタリア映画を観て現地の雰囲気を味わいました。「どうしてもイタリアに行きたい、イタリアと行き来する仕事に就きたい」。アリタリア航空に入社したのはそんな若さゆえの勢いと好奇心からでした。

マイノリティという経験を生かし
多様な環境に生きる人の懐に飛び込む

カメラを始めてから会社の制度を利用して仕事を1年間休み、あちこちを旅して撮影。復職後は2年半ほど写真のワークショップに通いました。
33歳のときに個展を開催したことがきっかけで雑誌の仕事をいただくようになり、客室乗務員を続けながら、休みの日を利用して本格的に活動を始めました。イタリアからのフライトを終えたその足で、アルゼンチンまで撮影に出掛けたこともあります。今思うとかなりハードな生活をしていましたが充実していました。写真集の出版を区切りに、この道で生きていく決意を固め独立したのが36歳。

周りはイタリア人の同僚ばかりで、マイノリティの立場で現場にいたことが、様々な環境に生きる多様な人々の撮影に役立っています。外側から眺めるのではなく、「私がこの地に生きていたら?」と被写体の内面を意識しながらシャッターを切っています。

今、1年のうち半分は海外。40代後半に入り限られた時間のなかで興味のあることはさらに積極的に取り組みたいという思いが強くなりました。今後、インドの布を巡る人々についてまとめたいと思っています。