水俣フィールドスタディ報告①

2021年12月15日

インドネシア/水俣短期フィールドスタディでは、「持続可能な社会のかたち〜地域からつくる環境と社会と経済の調和」をテーマに、まだ終わらない水俣病の問題を学びに10月30日(土)から11月2日(火)にかけて水俣でのフィールドスタディを実施しました。水俣病を題材にした映画『MINAMATA』が公開されるなど、環境問題への人々の関心はますます高まっています。今回、短期間でしたが、患者さんや患者さんを支える支援者(恵泉の卒業生です)に会い、水銀を出したチッソ工場の元労働者から話を聞き、資料館の展示で学び、関連施設や自然豊かな海を訪れる密度の濃い時間を過ごすことができました。以下は、その報告です。

水俣を訪れて

小沼玖未(国際社会学科3年)

 11月1日。水俣の天気は朝から暖かく、今日も清々しい一日だ。FSも終盤に差しかかり、明日でもう終わりかと思うと寂しさも感じる。今日は一日かけて水俣病関連の主だった場所を回る。

 始めに向かった大崎鼻岬は、天気が良かったことから、不知火海に浮かぶ御所浦島、獅子島を見通すことができた(写真1)。その島々にも水俣患者が存在する。漁師でもあった彼らは、漁業組合から患者であることを伏せるように命じられた。患者であることが世間に知られれば、魚が売れなくなるからだ。実際、そこは鯛が多く釣れる良い漁場なのだ。

 /><span style=(写真1)

 水俣は海の豊かさで知られているが、土地にも「お宝」が潜んでいる。化石だ。御所浦島には、「天草市立御所浦白亜紀資料館」があり、アンモナイトや恐竜の化石が展示されており、その発掘のために多くの人が訪れる。

 一方、水俣市の土地の豊かさを示すのが泉だ。山からたくさんの養分を含んだ清水が湧き出している。水俣から不知火海に浮かぶ離島に海底送水管が伸びており、水不足を救った。島の人々は「友情の水」の証として「感謝の碑」を岬の先に立てた。

 チッソ正門に移動して相思社の方の話を伺った。真正面に水俣駅がある。正門と駅の間をつなぐ100mほどの道路の両脇に飲み屋が数軒、当時の面影を残しながら建っている。ここは、患者らがチッソ正門に集まり抗議をする場所であった。また、チッソの労働者がストライキをする場所でもあった。「見舞金契約」で一時静かになった後、賃上げ交渉を巡る闘争が大きく広がり、再び市を混乱させた。この機に会社側は労働組合を第一、第二の二つに分裂し弱体化を謀ったが、これが組合員の意識変革をもたらし、その後の水俣病患者支援につながっていった。歴史の厚みを感じる。

 正門から左手、工場の脇に廻ると、メチル水銀を含む廃液が流れ出た百間排水口がある。当時、水俣病の原因をメチル水銀と知らない漁師は、そこを穴場の船置き場としていた。漁船の底にはりついた貝が綺麗に取り除けるからだ。今では、排水口から先は毒のヘドロを埋め立て、公園となっている。崩れないように竹が植えられているが、百間口正面に「第二水俣病」と言われる新潟・阿賀から送られた地蔵さんが見守っている。公園の先、海に面したところには、慰霊碑を囲むように患者さんが彫ったたくさんの地蔵さんが建っている(写真2)。

 /><span style=(写真2)

 昼、相思社に戻り用意してくださったお弁当をご馳走になった。おこわの上にアサリや山菜が敷き詰めた「わっぱ飯」だ。美味しさにエネルギ-が戻り、皆に笑顔が戻った。

 午後は、昨日話をうかがった患者の坂本しのぶさんの実家があった湯堂を訪問した。今でも袋湾を囲むように家々が軒を連ねる集落から、当時の活気を感じさせる。波頭の先には「ゆうひら」と呼ばれる海底の湧き水が 3 カ所あった。湧き上がってくる水に「静かに浮き上がる水面を見て、自然の不思議さと凄さを感じた。

 次に訪れた茂道の海は、白波ひとつなく、海面が太陽を受けてキラキラと輝いていた。左からせり出した山肌にミカン畑が広がっていた。海辺に降り、潮風を感じていた時、しらすを乾燥させていた女性に声をかけられた。「どこから来た?」「東京からです」というやり取りが終わるやいなや、その方は商売品(杉本水産)のしらすを味見させてくれた。干し立てのしらすには、ほんのりと海の塩が残り、言葉に表せない美味しさだった。この土地の人の優しさと気さくさにほっこりした気持ちになった。「かけがえのない味」というのは、このことを言うのだろうか(写真3)。

 /><span style=(写真3)

 最後に再び相思社に戻り、チッソ工場に勤務されていた山下善寛さんによる講話を聞いた。水俣病が発生した当初の工場内の混乱の様子、チッソ工場で勤務されていた立場としての患者への思い、そして現在の活動について話してくださった。当時、一部の市民による工場内への嫌がらせがあり、とても緊迫した雰囲気があったそうだ。それもあって、水俣患者に対しては、複雑な感情を抱いていたとのこと。申し訳ないとの気持ちと、会社が潰れないかとの不安、そして今後の生き方への模索の中で葛藤していたのだ。現在は、高齢にも関わらず、石鹸工場、グリーンコープ、障害者施設などで精力的に環境問題や市民支援の活動に取り組んでいる。山下さんも確実に、水俣病によって人生を変えられた住民の一人だ。

 わずか一日で多くのことを学んだ。工場から排出された水銀によって日常が一瞬で奪われた漁民の苦しみ、多くの犠牲を出したチッソ側の葛藤、この両面から水俣の問題を考えることが現地を訪れてはじめてできたと思う。言えることは、何かことが起きてからの対応では遅い、ということだ。これは、今の時代の私たちにも通じる。変化する世の中において、様々な環境や社会の問題が今でも多くの人たちを苦しめ、私たちの暮らしにも影響を与えている。苦しみに悶える人たちのことを考え、迅速に対応しなければならない。私はこれをまず教訓としたい。水俣で再確認した日常のありがたさや今まで気にとめなかった自然の恵みを覚えておきたい。患者の悲痛な思いと自然のかけがえのなさという水俣が与えてくれた警鐘を心に鳴らし続け、未来への行動の糧としたい。

フィールドスタディについてはこちらです。
フィールドスタディはすべての学科の学生が参加可能です。

また、本学は「国際性」の分野で5年連続首都圏女子大1位の評価をいただいています。欧米やアジアで本学が実施する多彩な海外プログラムに加えて、コロナ禍において実施中の海外とのオンライン・プログラムについてこちらでご覧になれます。