韓国料理の紹介で活躍中の恵泉一期生・加来紗緒里さんを多摩キャンパスに迎えて

なんと恵泉女学園大学の一期生なのですね。

  そうなのです。4大になって初めての学生でした。上級生がいないわけですから、学校全体がシーンとしてる感じでしたね。昼間でも人がいるのかなと思うぐらい静かなことがありました。誰もいない大きな教室で、置いてあるピアノをたった一人で弾いてみたり。こんなことができるのは一期生である私たちの代だけのことなのだろうと思って、贅沢に感じながら静けさを味わっていた思い出があります。学部もまだ人文学部しかなく、学科も日本文化学科と英米文化学科しかありませんでした。

それまでに恵泉との関わりは?

  実は中学、高校も恵泉でした。親に言われて中学を受験しました。子供ですから最初は土日が休みらしいとか、制服がないらしいとか、本当に他愛もないことに惹かれていたのですが、入学前に「河井道の生涯」という本を読むように奨められ、読み始めると夢中になって読破したことを思い出します。河井先生のことが胸に迫る感じで「なんて良い学校に自分は入れたのだろう」と、恵泉に通えることが素直に嬉しかった記憶があります。

経堂時代の思い出はいかがでしょう。

  たとえば自分は土に親しんで育った少女ではなかったのですが、河井先生の本を通しても、恵泉は園芸をする学校だと分かっていましたから、実際に園芸の授業を受けることになって「来たなー」という感じでした(笑)。いろいろ思い出はありますが、たとえばピーナッツを育てるところから始まって、収穫してピーナッツバターを作ったのが印象的でしたね。本物のピーナッツバターはこういうものなのだと教えてもらいました。それ以外にも短大の園芸科に生活訓練と称してお出かけして、お手伝い半分、教えて貰うのが半分という感じで雑草取りなどをしました。土仕事というと、十代の私たちは不慣れですし、面倒という思いが先に立ってしまいがちですが、収穫の尊さ、楽しさを教えてもらったと思います。

聖書・国際・園芸の「聖書」はどうでしたか。

  家は仏教でお葬式を出すような平均的な日本の家でしたが、たとえば「大草原の小さな家」のようなドラマでキリスト教の家庭の話には親しんで育っていたのでキリスト教教育の部分は特に違和感はなかったです。高2の時に洗礼を受けてキリスト教学生として活動もしていました。

そのまま大学に進まれたわけですね。

  高校の先生に「今度4大ができるからと進んだらどうか」と勧められたこともあり、決めました。英米文化学科を志望したのは、中高の頃から海外に留学経験のある先生や、帰国子女の同級生など、海外を経験している人が多かったので、日本をつきぬけた空気感への憧れがあったと思います。外に向かいたい、繋がりたいという思いがありましたし、英語も好きでした。

大学時代の思い出は?

  そうですね。「シオンの会」という学生キリスト教サークルを作って活動していました。一色義子先生(前理事長)にもご指導いただいて。一色先生のおうちは中高の近くで、毎日通学しながら横を歩いてはいたものの、なんとなく遠い存在でした。ところが大学に入ってから色々相談に乗ってもらって娘のように接して頂き、恵泉の子になったような気がしました。

当時の専攻はなんだったのですか。

  イギリス宗教文学を専攻し、山本俊樹先生にご指導いただいていました。

まさに英米系だったのですね、今のお仕事ぶりを思うと意外な印象です。

  学生時代に韓国に興味があったかというと全然そうではありませんでした。中高も恵泉出身で、植民地時代や戦争中の日本のことを意識した教育を受けてきたせいか、社会意識の高い同級生は韓国との交流を進める活動などもしていましたが、私は「申し訳ない」という気持ちが先に立ってしまい、個人的に近づくことをなんとなく躊躇していました。
  ところが卒業後の進路を考える時期になって、就職情報会社から送られてくる資料の中に大宇という韓国の会社の募集が目につきました。父も「大きな会社だよ」と言うほどの企業ということを知って、面接を受けてみる決心をし、運よく採用にまで至りました。
  それが韓国との付き合いの始まりなのですが、勤め先は大宇とはいえ日本支社で、駐在員はみな日本語を勉強して来ているエリートですから、韓国の本社から掛かってくる電話を取り次ぐ時に「もしもし」とか「少しお待ちください」を韓国語で話せれば済むぐらい。仕事は日本語で充分でした。実際、当時の私はハングル文字も丸とか棒の組み合わせにしか見えなかったです。

そうした状況がいつ変化したのでしょう。

  今の恵泉生はどうなのかわかりませんが、その頃私たちの中では入社してとりあえず三年間はがんばってから、その先の道を考えようという風潮があって、私も二年目ぐらいになると、これからどう生きていこうかと色々悩むようになったのですね。そして、その時に初めて韓国語を勉強しようと思い立ちました。上司に勧められたというよりは、何か始めないとという焦りのような思いに突き動かされたのですが、逆に上司には「なぜ韓国語を勉強するのか」「英語の方がいいのではないか」と言われる時代でした。
  実際に勉強してみると会社や、通っていた教会ですぐに実践できたので、勉強した分、使える手応えがあったのがモチベーション維持に繋がりました。その後、直接韓国に旅行してみて、机上の知識とは違う、現実の人との出会いを通して知る韓国に惹かれました。それで、もっと本格的に勉強しようと思い、大宇を辞職してソウルの延世大学に語学留学し、帰国後サムスンの日本支社に入社しました。
  ただ韓国企業は学歴主義が強く、博士号でも持って入れば女性でも専門的な仕事につけるのですが、そうではないとやはり大方は事務職なんですね。一年間語学を勉強したからといって、現実はすぐに仕事に生かせるわけではなかったので、将来に対する悩みは相変わらずありました。そのうち通貨危機でIMFが入ることになり、サムスンも大幅な組織改編が実施され、それを機会に会社をやめました。
  恵泉出身者はそうした志向の人が多いと思いますが、私も常に、自分自身の仕事を持ちたいと思ってきました。時代の流れも手伝ってくれて、韓流ブーム後に韓国語を学びたいという人が増えたこともあり、まず日本で韓国語の講師の仕事につくことができました。その後、一念発起して韓国に渡り、韓国では知り合いを通じて、テレビ局の通訳アテンド、現地市場調査や資料翻訳などの傍ら、カフェを運営したりもして、色々な人との出会いがありました。

通訳の仕事で難しいところは?

  ボールペンが10本ですと伝えるのは、誰にでもできます。難しいのは言葉にされなかった部分をいかに伝えるか。専門家や業界の人はその世界で通じる専門用語を多く使いますし、同じ文化をバックグラウンドに持っていれば、言葉で敢えて表現しなくても通じ合えます。ただ、それを逐語的に訳しても相手に通じない場合は、必要に応じて通訳が補わないと理解出来ないのですね。異文化に生きる人にも、すとんと腑に落ちるように通訳しないと伝えたことにならない。そのためには言葉の通訳ではなく、文化の通訳を心がけることが大事になってきます。そう思うようになったのは、言語は違えども恵泉で英米文学の教育を受けた経験が大きいと思いますよ。なかなかうまくゆかなくて、仕事の後はいつも一人で反省会をしていますが。

今回のネット番組出演のきっかけにもなった「ナムリ流」との出会いは?

  韓国で暮らすようになって、自分が一番参考にしていた韓国料理の本でした。ナムリさんの最初の本が出版された当初は、韓国で一般男性が料理の本を書くのはとても珍しい存在。著者のナムリ(本名キム・ヨンファン)さんは失職を機に、生活費を切り詰めるための自炊生活メニューをブログで紹介したことから人気が出た、まさに韓国インターネット世代から生まれた料理作家です。

どこの台所にもある、ご飯用のスプーンを計量に使うのが彼のスタイルで、それも親しみやすさなのでしょうけど、韓国料理の世界で新しいスタンダードに作りつつあるのだとか。

  ええ、他の本と違って、韓国料理の基本的なことから丁寧に説明されていのがすごく役に立って、本当にボロボロになるほど愛読、愛用していました。そんなナムリさんが自分のブログで、今度日本でも翻訳が出ますと紹介されていてとても嬉しく感じました。この本、誰か日本に紹介したらいいのになぁとずっと思っていたので。   でも、日本語版の出版と同時期に開設された日本の公式サイトを見てみたら、きっと事務所の所長が自分で自動翻訳ソフトを使いながら苦労して訳したのだと思いますが、日本語としてはあまりこなれていなかった。そこで失礼を承知で連絡をとって、日本語訳でしたらお手伝いしますと申し出て、まずサイトの翻訳を担当し、日本語訳の第二段が出るときにも声を掛けて頂いて翻訳をさせて頂きました(『韓国でいちばん親しまれている韓国料理の本2』加来紗緒里訳。武田ランダムハウス・ジャパン)。   その翻訳料理本が、前から一緒に仕事をしてきたフジテレビの方の目にとまって「それだったら番組を作りませんか」ということになりました。最初は「料理の専門家でもない私が、とんでもない」と思って固辞していたのですが、「プロの料理人ではない、翻訳者が実際に本に出てくる料理にチャレンジするというところが、この番組のポイントなのですよ」と妙な説得をされて、結局、去年の夏から番組に出演することになりました。

佐々木恭子フジテレビアナウンサーとのやりとりが絶妙です。

  佐々木さんは初対面という感じがしないほど、撮影初日から料理中も、休憩中も二人でずっとおしゃべりしていました。通訳という裏方で、タレントでもない私がカメラの前に立てたのは彼女の人柄やスタッフのおかげです。どこかで恥ずかしいという思いも常にあるのですが、幸か不幸か周囲には全くそう見えないらしいです。K-COOKを通して知らなかった自分の一面を新たに発見しました。

料理に関する話題だけでなく、ワンポイント韓国語レッスンや、映画やコスメなどの韓国の流行を紹介されていますね。韓流ブームはもはや一過性でなく、世代を超えてすっかり定着していますので見る人も多かったと思います。

  おかげさまで、フジの無料動画配信コミュニティサイトである「見参楽(みさんが)!」では180万ビューと、たくさんの方に見て頂いています。それだけのひとに見られるほど韓国に対する興味は広がっているということですね。私が韓国語の勉強を始めた頃は、韓国について話しても共感してくれる人を見つけるのが難しかったですから大きな違いです。今や歌やドラマとか映画を通じて、韓国のことが普通に話せるようになって嬉しいですね。「キムチ」だけでなく、「チゲ」や「サムギョプサル」が日本でも通じるようになったとか感心します。
  番組は7月スタートで12回分が最初の配信だったのですが、第二弾をということで第二クールが10月からスタートして12月まで。今は配信終了していますが「見参楽」ではアーカイブが2月まで、CSで再放送していますし、iTune経由のポッドキャスティングでも見られます。

今後の活動予定はどうなのでしょう。

  もうすぐ翻訳出版予定の本があって、またナムリさんの料理本なのですが、まさに韓国家庭料理のスタンダードなレシピ集を翻訳しています。これも韓国でベストセラーになったものです。今までの本のように、調味料の配合は原本のままですが、なるべく日本の人が見ても理解しやすいように、補足できる部分を補いたいと思っています。

日本でも食材の調達などできるでしょうか。

  今では日本でも殆ど入手可能になりましたが、季節野菜の山菜などは、少し苦労するものもあるのかもしれません。しかし、それは韓国にしかない食材だからということではなく、比較的気候の似ている日本でも実はあるものだったりします。たとえば野蒜やなずななど、春になると向ヶ丘遊園あたりでも摘めるはずですが、流通している食材としてはポピュラーではありません。日本の都市のスーパーでは、手に入る野菜の種類が限られるなぁと思います。多様な食文化があったのにどこかにそれを置いて来てしまった感じがします。それに比べると韓国は季節のもの、その土地で育ったものを食べるということをすごく大事にしますし、自国の食文化に強いプライドを持ってもいます。そんな韓国の料理事情から学ぶことは多いと思いますよ。