2007年4月
ハンセン病という言葉を知っているひとは恵泉には多い。それは昨年度末で退官された森田進先生や荒井英子先生がご自身の研究テーマとされて来られた蓄積があるからだ。
僕も、恵泉に教えに来る前になるが、ハンセン病の隔離医療史について『隔離という病い』という本を書いた。1997年に講談社のメチエという叢書の中の一冊として刊行し、2003年に中公文庫に入れて貰った。
その中で北条民雄の『いのちの初夜』という作品を取り上げている。北条民雄は20歳の時、 1933年にハンセン病と診断される。ハンセン病差別が根強かった時代ゆえに病気の発覚により、結婚生活は破綻、北条は何度か自殺も試みたが果たせず、 1934年5月にハンセン病隔離施設だった多摩の全生病院(現・多磨全生園)に入院した。
とはいえ入院しても当時は治療法もなく、患者の人権は限りなく軽視されていた。『いのちの初夜』はそんな救いのない療養生活中に書かれ、1936年に『文学界』に発表された。
北条自身をモデルにしていると思われる主人公の「尾田」はある時、重症者の姿を目撃する。「泥のやうに色艶が全くなく、ちょっとつつけば膿汁が飛び出す かと思はれる程ぶくぶくと膨らんで、その上に眉毛が一本も生えてゐないために怪しくも間の抜けたのっぺら棒」という凄惨な患者の描写。怯える「尾田」に重 症者の介助員がこう言葉を掛ける。「尾田さん、あの人達は、もう人間ぢゃあないんですよ。・・・・生命です。生命そのもの、いのちそのものです」
人間の「かたち」を失っても生命は残る。『いのちの初夜』はそんな裸の生命と向き合って「生きろ」と訴える。一部分を引用しただけだが、それが微温的な 感動を与えるような「甘い」作品でないことはご理解頂けたはずだ。ぜひご自身で全編を読んで欲しいが、その前に多少の予備知識を持って頂きたい。ハンセン 病発病のメカニズム、治療法などを知り、ハンセン病者がなぜひどい差別を受けたのか、きちんと押さえた上で読まないと『いのちの初夜』は危険だ。あとぜひ 読み合わせて欲しいのは北条の人となりを知る作品。高山文彦に『火花』という優れた評伝がある。
そして若い人に特にお勧めしたいのが、宮崎駿『風の谷のナウシカ』のアニメ版ではなくコミック版のほう。これは謎解きに挑む気持ちで読み合わせてみて欲 しい(ヒントは前掲拙著に密かに書いてある)。ちなみにアニメ『もののけ姫』の広告コピーは「生きろ」だった。これは宮崎駿の問題意識が『いのちの初夜』 と深い部分で繋がっている証拠だーー。
『隔離という病い』を書いていた時、北条民雄が暮らした全生園を何度となく訪ねた。ある時、敷地内を自転車で颯爽と駆け抜けてゆく女子校生の姿を目撃し た。確かにかつては厳重に隔離されていた療養所内の通行も今はまったく自由。おそらく彼女にしてみれば、どこかに行く際の近道だったのだろう。
彼女がハンセン病について知っていたかどうかは分からない。しかし、ひとつ確かなのは忘却によって差別意識が消えることだ。ハンセン病について何も知らなければ元療養所の敷地も特別に意識せずに通り抜けられる。
だが忘却では「治癒」不能なものがある。それは自分と異なる存在を恐れ、差別し、排除しようとする人間の暗い「業」だ。もしも世間を震撼させるような感 染症が次に発生したら、かつてハンセン病者と同じように患者が迫害される可能性は極めて高い。そんな轍を踏まないためには、差別というメカニズムを分析し た上で、差別を発生させない法制度設計を「平時」にしておく必要があると僕は考えている。その作業のために、忘却に委ねず、ハンセン病差別の歴史から学ぶ 姿勢は極めて重要だ。それが学べる恵泉のキャンパスで、『いのちの初夜』をひとつの入口として、尊い部分も、弱い部分も含めて「人間とは何か」について考 える挑戦を始めて欲しいと思います。
*『隔離という病い』『火花 北条民雄の生涯』は図書館にあります。
1914~1937(大3~昭12)の短い生涯の最後の5年間がハンセン病の発病による破婚と自殺未遂、入園、闘病そして文学創作への執念である。わたし がこの作品と出会ったのは高校時代(昭和30年代の前半)であったが、この病気についてまったく知らなかった。公教育の現場で教わった記憶はない。寝ころ んで読み始めたのであるが、ショックで立ち上がってしまった。文庫本を閉じ、そして何年かが過ぎていった。
その後、早稲田大学の国文科に学士入学したその春、たまたま知り合ったのが安本末子さん(北九州の炭坑の街で育ち、その体験を書いたベストセラー『にあ んちゃん』の作者)である。彼女が取り組んでいる作家が北條民雄であった。高校時代に読んだ『いのちの初夜』が甦ってきて、なぜ研究しているのか、聞いた のである。彼女は、北條民雄とキリスト教との関わりを追求していると答えてくれた。思いがけない答えであった。このやりとりがきっかけとなり、あらためて 『いのちの初夜』と取り組むことになった。
この短編は、ライ園に入園した主人公がその最初の一夜の経験を描いている。昭和前期のライ園の実状を描写していて衝撃的だが、厳しい批判も多々あるのが 現状である。この短編の題名は川端康成が直したものであり、川端は北條民雄を背後から支援し続けたことが知られている。
この小説の力点は二つある。一つは、死を越えた復活への希望である。もう一つは、死をどのように迎えるのか、である。両者ともに、生とは何かという根源的な問いなのだ。
佐柄木は、こう言っている。「僕らは不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復るのです。復活、そ う復活です。ぴくぴくと生きている生命が肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。」小説は、「やはり生きて見ることだ、と強く思い ながら、光りの縞目を眺め続けた」で終わる。が、生身の北條は、その一年後には亡くなっている。
安本末子さんは、ここからキリスト教の復活思想をおそらく引きだそうとしたのだろう。残念なことに私は、彼女の卒論に目を通す機会は与えられなかった。大学紛争の中で卒業式もないまま社会に追い出されてしまったからである。
北條文学は、日本のハンセン病文学の第一期の作品群であり、治療薬の開発もなかった時代の文学である。この作品の限界を現在の視点から批判することは安 易である。当時の状況に身を置いて、死の越え方への激しい願望を読み取るべきだろう。とともに、現在の状況の中での復活とは何かという新たな問いつめも必 要なのである。
この作品に出会ってから、師・大江満雄を通して、ハンセン病文学の歴史を私は、学び始めた。もう三十数年になる。四国在住時代には、詩人・塔和子と知り合い、ときおり我が家に遊びにも来てくれた。
恵泉に赴任してからは、草津楽泉園へも学生たちと通うようになり、生き延びてきた元ハンセン病者との交流を深めている。元患者の彼らにとっても、『いの ちの初夜』は、青春期の絶望を想起させる激痛なのであるが、今は、まったく異なる次元にまで辿り着いている。大胆に言えば、復活を遂げた豊かな生の現場か ら、日本のハンセン病史の証言者として、文学の創造に全力投球しているのだ。
恵泉の学生たちが、元ハンセン病患者のお爺さん、お婆さんたちから生きる喜びを教えられ、励まされている姿を見かけるたび、私もまた人間の可能性に希望を抱き、なすべきことがさらに見えてくるのである。
河井道以来の恵泉のハンセン病者たちとの交流を謙虚に受け止め直し、さらに歩んでいきたいものである。
*『いのちの初夜』は同タイトルの単行本、文庫版、『北条民雄 集』などに収録されており、図書館でこれらを読むことができます。
どうしてだろう
想った言葉が
溢れた言葉が
次の瞬間には何事もなかったかのように
「出会う」ということについて考える。
「わたし」という一つの歩く感情体が、この世界の誰か、あるいはなにかとぶつかって、立ち止まり、興味をもち、そして惹かれあう。それを出会いと考える ならば、わたしたちは絶えず誰かしら・なにかしらと出会っているし、そこここでぶつかりあいは起きている。ただ、それを出会いととるか否かというのは人そ れぞれである。そして、昨年のちょうど今頃である。この、一つの歩く感情体は、体をつらぬき心が感電するような大きな出会いを体験してしまった。「ライ 病」―ハンセン病との、出会いである。
『いのちの初夜』
二十四歳で夭折した、ハンセン病患者・北條民雄氏が執筆したこの短編集によって、この出会いはもたらされた。さらに正確に言えば、北條氏のことを知るきっ かけとなったのは、本校の教授(2006年度で退職を迎えられた)、森田進氏の講義を受講したことによる。講義を通して、ハンセン病の歴史や療養所につい て、そして、今なお療養所で暮らしている元患者たちの生活や思索活動などを知ることができた。「ライ文学」を確立させた人物と言われる北條氏の著書『いの ちの初夜』には、患者たちの苦悩と絶望、そしてかすかな希望が籠められている。かつて「ライ病」と呼ばれ伝染病として恐れられた病気、ハンセン病。実際 は、感染力は低く接触や空気による感染はなかったにも関わらず、その症状の―主として身体的特徴の―ゆえに、さげすまれ忌み嫌われてきたもの。
北條氏のまなざしは透きとおっている。まっすぐなのだ、と思う。まっすぐで、素朴で、隠さない。あるいは、隠せないのかもしれない。また、隠す必要もない のかもしれない。文字なのに、においがする。それは、決して消すことのできない、北條氏の激情からくるにおいだ。獣のようで、森の奥の深い沼のような、彼 の世界のにおい。
たとえば、患者の身体的特徴についてのこのような描写に、打ちのめされてしまう。
急 にばたばたと駆け出す足音が響いて来た。とたんに風呂場の入り口の硝子戸が開くと、腐った梨のような貌がにゅっと出て来た。―略―奇妙な貌だった。泥のよ うに色艶が全くなく、ちょっとつつけば膿汁が飛び出すかと思われるほどぶくぶくと脹らんで、その上に眉毛が一本も生えていないため怪しくも間の抜けたのっ ぺら棒であった。駆け出したためか昂奮した息をふうふう吐きながら、黄色く爛れた眼でじろじろと尾田を見るのであった。―略―どす黒く腐敗した瓜に鬘を被 せるとこんな首になろうか、顎にも眉にも毛らしいものは見当たらないのに、頭髪だけは黒々と厚味をもったのが、毎日油をつけるのか、櫛目も正しく左右に分 けられていた。
――『いのちの初夜』より
彼らの感情は交錯する。「必然どこかへ行かねばならぬ、それもまた明瞭に判っているのだ。それだのに、『俺は、どこへ、行きたいんだ』」「けれども、君は 君の生命が君だけのものではないということを考えるべきです。君のものであるとともにみんなのものです。―略―どうでも生きてもらいたい僕の願いです」。
「死ねると安心する心と、心臓がどきどきするというこの矛盾の中間、ギャップの底に、何か意外なものが潜んで」いる。そして、生きる意志が絶望の源泉であるがゆえに、彼らは苦しむのだろう。
ページを繰る手を思わず止めて、じっと凝視してしまった箇所がある。それは、北條氏が「ライ者」となったことでつかんだひとつの真理が描かれているところだ。
そこで彼は、「ライ者」はもはや人間ではなく、「いのちそのもの」だと言い切る。「ライ者」は「不死鳥」であり、新しい思想と新しい眼をもつとき―「全然 癩者の生活を獲得する時」―再び人間として生きかえる。「一たび死んだ過去の人間を捜し求め」るがため存在する絶望を振り切り「癩者になりきって、さらに 進む道を発見」した先に、苦悩からの解放が見えると言う。なんという覚悟だろう。どれだけの苦悩を乗り越えてきたのだろう。
肉体を捨て、どんな廃人のなかにも美しい精神は育つと言った北條氏の魂は、己の苦悩を小説という芸術表現にぶつけることで昇華されていったのだと信じてい る。だからこそ、短編集の最後の作品『吹雪の産声』では、彼ら患者が、死ぬのではなく生きることを闘おうとしている姿勢が描かれている。
「死ぬ人もあるけれど、生まれる者もあるんだ。―略―今にも呼吸の絶えそうな力の無い声であったが、その内部に潜まっている無量の感懐は力強いまでに私の 胸に迫った。死んで行く彼のいのちが、生まれ出ようともがいている新しいいのちにむかって放電する火花が、その刹那私にもはっきり感じられた」
さまざまな光のなかで
くるくると廻る闇もまた
光を照らすためにあると
気づいた 私
「らい予防法」は、一九九六年三月二十七日に廃止され、今日、日本の患者数は激減している。元患者たちも、後遺症を抱えながら残り短い命を療養所のなかで 燃やす。そうして、日本から「ライ」は消えていく。けれど、法がなくなったことで、これまでの過去が帳消しになるわけではないのだ。彼らをいなかったこと にはできない。彼らとの関わりかたは、その点にかかっていると言えるだろう。
誰だって、ほんとうは一人である。その人の心のなかが完全に理解できる人はいないし、生きてきた環境の異なるわたしたちは、共感しあえないところもあるこ とに気づかなければならない。度を越えた情は自己満足や偽善の温床となり、溝を深めるだけで徒労に終わってしまう危険性をも孕む。けれど、誰だってみんな とつながりたい。人は必ず人を求める。己の信じる道を突き進んで、信じてゆくしかないのだ。そのときに、きっと、弱い自分を支えてくれるなにかが、あるは ずなのである。
光照らす道であるように
暖めてくれる手が
そこにある
かじかんだ心までもが
じんわり
ゆるんできて
生きてきてよかったと 思える
ゆっくり息をするたび
美しい青空に出会うたび
柔らかな満月に触れるたび
幸せになるのは何故だろう
そうして、ほんのすこし
さみしくなるのは何故なんだろう
◆ 蔵書点検を行いました
2月6日から2月20日まで蔵書点検を行いました。長期にわたる閉館の間利用 者の皆さんにはご不便をおかけしました。ご協力ありがとうございました。
◆ 公式ホームページをリニューアルしました
トップページも少し衣替え、新しいページも増えましたのでどうぞご覧下さい。
図書館には昭和21年発行の『いのちの初夜』があります。正確には 「初版」ではありませんが、発行時の体裁を偲ぶことができます。 ちなみにこれは元大学学長の尾崎安先生御寄贈のものです。(A)