しなやかに凛として生きる

在学中に取り組んだすべてのことが
ブラジル、韓国への道を切り開いた

国際基督教大学 日本語教育課程 講師
武田 知子さん

― Profile ―

人文学部 日本文化学科 1995年度卒
(現 日本語日本文化学科)

1997年、ブラジルパラナ州カンバラ日伯文化協会に派遣。2000年、ラボ日本語教育研修所の日本語教員養成課程で日本語教育を学び直す。2001年、お茶の水女子大学大学院入学。
2003年、韓国新羅大学専任講師。2005年、恵泉女学園大学特任講師2015年、国際基督教大学日本語教育課程専任講師。

海外に羽ばたくために、日本について勉強
所属する学科以外の授業も取っていました

国際基督大学で、継承語(帰国子女など外国語環境で育った人のための母語教育)、留学生の第二言語としての日本語教育に携わっています。学生たちが日本語を話せるようになり、どんどん成長する姿が目に見えるところにこの仕事のおもしろさを感じています。多様な背景を持つ学生との交流も刺激的。日本語教員になって20年ほど経ちますが、まだまだ勉強するべきことがあって終わりが見えないことにも魅力を感じています。画一的に教えるのではなく、学生それぞれの課題に歩み寄れる教員になりたいと常々 思っています。

興味を持ったことには躊躇せずチャレンジする性格。大学受験のとき「将来、国際交流の仕事がしたい」と高校の先生に相談したところ「本当に国際的に羽ばたきたいのならまず日本のことを勉強しなさい」と助言いただき、日本文化学科を受験しました。恵泉では、日本語や日本文化を学びながら、学科外でも東洋思想や国際協力についてなど多様な授業を取ることができたことが、私の基盤になりました。日本語教育副専攻も履修しましたが、在学中は日本語教員になるとは考えていなかったので、あとで役に立つとは思いもしませんでした。

経験不足でも「来てくれて嬉しい」と言われ、
日本語教員として決意を新たに

卒業後、アメリカの大学院に行く勉強をしながらアルバイトをしていたときに、電車内で日系社会青年ボランティアとして日本語教員を募集するJICA(独立行政法人国際協力機構)の広告が目に入りました。以前から関心を持っていた南米に住める上、大学院の学費も貯められると思い、さっそく応募。ブラジルで日系の子どもたちに日本語を教えることになりました。ところが、勉強と経験不足でうまく教えられない日々...。それでも子どもたちも保護者もみなさん優しい方ばかりで、「あなたのおかげで日系人が集まる機会が増えた。十分役割を果たしてくれているよ」と励ましてくれてありがたかったです。

3年の任期を満了し、次にすべきことがわからなくなり、恵泉を訪れました。お世話になった澤井啓一先生(本学名誉教授)には「日本語教員を続けてみたら?」とアドバイスをいただき、秋元美晴先生(本学名誉教授)からは「日本語教員としてもっと勉強したいなら」と専門学校をご紹介いただきました。そこでの学び直しを経てさらに大学院に進学。
その後、秋元先生のご推薦で、今度は恵泉の協定校である韓国の新羅大学で2年間、教員を務めました。韓国では歴史的背景から日本語を教えることの意味を自問自答しましたが、学生との対話を通し、言語教育には歴史をふまえ未来につなぐ役割があると気付かされました。
ブラジル、韓国での経験は、生活も仕事もすべてゼロからのスタートで大変なこともありましたが、どこでもよき出会いがあり、多くの人に支えてもらい、乗り越えられたと思っています。

韓国から帰国後は10年間、恵泉で特任講師を務め、現在の職場に移りました。

迷った私を導いてくれたのは、
先生方のあたたかい言葉

思えば、先生方のアドバイスが人生の転機になりました。ブラジルに行くときも先生方に報告。大橋正明先生から「ブラジルに行って一体何をしているのかを伝えたほうがいい」と勧められました。そこで、自分の生活を報告する「カンバラ通信」を手作りし、まだメールが今ほど普及していなかったので、コピーして家族や友人、恩師の方々に郵送していました。「カンバラ」というのは住んでいた町の名前です。
帰国後、先生方がカンバラ通信を通してブラジルでの活動を理解されていたからこそ次の道を指し示してくださったと知り、自分の活動を記録し、発信することの大切さに気づきました。

ゼミでインドやバングラデシュに行き見聞を広めたこと、1年間の協定留学でアメリカに行かせてもらえたことも今に生きています。秋元先生が「人がすることはすべてつながっている」とおっしゃられていましたが、確かに、これまでの経験すべてが今の仕事につながっています。
ブラジルでは当時、サッカー留学をしていた夫とも出会いました。息子は今小学生。家族との時間を大切にしながら日本語教育道を極めたいです。