谷口稔先生が新渡戸稲造研究で博士号を取得されました

2018年09月17日
恵泉女学園大学学長 大日向雅美

今日はとても嬉しいご報告です。
この4月に本学に着任した谷口稔先生が、9月14日、横浜国立大学大学院国際社会科学府において行われた修了式で博士(経済学)の学位を授与されました。
博士論文の題目は『新渡戸稲造の人格論と社会経済思想』です。

新渡戸稲造は恵泉女学園およびその創立者河井道にとって、なくてはならない大きな存在です。札幌農学校に勤務していた頃、当時、スミス女学校にいた少女時代の河井を見出し、その育成に情熱を注いでくださった方です。河井は1898年、21歳で新渡戸夫妻と共に渡米。ブリンマー大学に留学し、そこでの学びが後に恵泉女学園創立(1929年)につながっていきますが、学園創立に際して、新渡戸は河井の設立する恵泉女学園に関する一切の責任は自分が負うことを明言する書類を東京府知事にしたためています。*さらに設立に必要な資金援助にも尽力くださいました。しかも、そうしたことは河井に一切知らせることなく、陰で支えてくださったと聞いています。
(*新渡戸がしたためたこの引受書は、1929年の2月26日に記されています)

一方、谷口先生の主な研究テーマは、内村鑑三、新渡戸稲造等の日本のキリスト者がどのような世界観、人生観を持ち、日本の諸分野に影響を与えたか、また、日本の伝統とキリスト教とをいかに接ぎ木しようとしたかを考察することですが、その谷口先生のこの度の学位取得を殊のほか嬉しく思うのは、論文執筆にかけた先生の並々ならぬ決意と情熱があるからです。
先生は慶應義塾大学経済学部および同大学大学院文学研究科修士課程を修了したのち、1984年から2015年まで恵泉女学園中学・高校の教諭として、政治経済・倫理・世界史を担当していましたが、定年を前にした2015年3月、新渡戸稲造研究のために中学・高校の教諭を退職し、横浜国立大学大学院博士課程に進学して研究に没頭されたのです。

なぜ、そこまでしての新渡戸稲造研究であったのか、谷口先生にその思い、そして、その研究から得たもの、学生や人々に伝えたいこと等について綴っていただきました。

私が新渡戸稲造で博士論文を書くようになったのは、次のような経緯があります。私は、高校時代、日露戦争で非戦論を展開した内村鑑三に興味を持ち、それが修士論文につながりました。大学院修了後、恵泉の中学・高校の教師になったのですが、ある人から「内村鑑三より河井道につながる新渡戸稲造を研究して欲しい」と言われました(内村と新渡戸は札幌農学校の同級生です)。私はすぐにはそういう気にならなかったのですが、50歳を過ぎた頃から新渡戸稲造を掘り下げる必要があると思い始めました。新渡戸が人格的に優れた方であったこと、その点を河井道が継承していることは最も重要な点であると思います。しかし、新渡戸には植民政策学者としての面があり、台湾の植民政策にも実際に関わっています。現在も、一部の人から帝国主義者・新渡戸という批判を受けているのです。将来、河井道研究をするには、どうしても新渡戸のこの部分を、自分なりに納得のいく理解をしておきたい、これが新渡戸研究に進んだ動機でした。

新渡戸は、植民を開発の延長線上に見ており、植民の終局目的を「文明の進歩」に置いていました。この点は人類平等を説くクエーカーの思想ともつながります。今、ここで詳しくは述べられませんが、台湾農家のためにある種の配慮をしていたのです。作物が不作だった時の「保険」、製糖業者から搾取されないように「組合」をつくること、製糖会社の利益に与れるように農民への「株の分配」等です。しかし、台湾総督府はそれらの政策を実行に移しませんでした。現代では、植民政策自体が許されませんが、当時において、新渡戸の描いた植民政策は、外形的には日本帝国主義と軌を一にしたようではあっても、その内実はかなり異なっていたと私は思うのです。

私は博士論文で、新渡戸の「人格論」をベースに「植民思想」「農業思想」「教育思想」を論じました。博士課程を修了するのに4年半という歳月を要しましたが、この間、多くの新渡戸研究者と交わりを持ってきました。新渡戸の精神を継承する人たちは「社交的」なのが特徴です。それは、新渡戸が人と人との交流を大切にしていたことを受け継いでいるからでしょう。河井道もその一人です。河井道の思想形成には新渡戸稲造が大きく関わっています。今後は、河井道が、女性としてどのような思想を持ち、展開していったのかを研究していこうと思っています。

谷口先生のご研究の益々の発展を祈り、期待したいと思います。