拙著『母性の研究』の新装版刊行について

2016年12月19日

本日は今週、刊行の運びとなる拙著『新装版 母性の研究』についての報告です。

原著『母性の研究』(1988年)は、1985年にお茶の水女子大学から学術博士号を授与された博士論文をそのまま上梓したものですが、副題に「その形成と変容の過程:伝統的母性観への反証」とあるように、近代以降の日本社会の隅々に根深く存在してきた母性観への問題提起の書です。

伝統的母性観への反証

伝統的母性観に疑問を抱いたきっかけは、1970年代初めに起きた、母親たちによる一連の子捨て・子殺し事件(コインロッカー・ベビー事件)でした。

どんな事情があるとしても、わが子を殺害することは断じて許される行為ではありません。そうであればこそ再発防止のためにも、犯行の背景やそこに至る経緯に私たちはもっと関心を払うべきですが、当時の社会にはそうした視点はほとんどありませんでした。
「母親失格」「母性喪失の女」等の言葉で、加害者となった母親たちを一刀両断のもとに切り捨てていたのです。女性であればだれもが、いついかなる環境下でも、立派に間違いなく育児ができる能力を生まれながらに持っているはず、すなわち「母性本能」があるはずだという考え方を前提とした母親批判でした。
一人の女性として、そうした母性観を押しつけられることに、私は違和感と共に恐怖に近い圧迫感を覚えたことを、40年近く経った今もなお鮮明に記憶しています。

心の中に芽生えた疑問を確かめたくて、母親を対象に全国を駆け回った私に届けられたのは、楽しげに子育てに励んでいるように見える母親たちが、実は胸の内に抱えている闇に脅える声でした。女性の高学歴化に伴って社会参加の機運も芽生え始めていた当時、従来の母性観の枠に収まりきれない女性たちの苦しみの声に接したことが、伝統的母性観への反証となり、「母性愛神話からの解放」を模索する研究の原点となりました。

子育て環境の変化には隔世の感

「母性愛神話からの解放」論は、当時としては視点や問題提起の新しさもあってか、多くの注目を集めましたが、他方では厳しい批判と非難も受けました。母性本能を信奉してやまない当時の日本社会にあって、私の真意はなかなか理解されず、時には母親が子どもを愛することを否定する極論の提起者であるかのような、言われないバッシングにもさらされるという厳しい数年が続きました。

風向きが変わったのが、1990年代に入ってからです。
1.57ショックに象徴される少子化への危機感の高まりや、虐待相談処理件数の年ごとの増加も、大きく影響した要因だったと思います。

以後、四半世紀余りを経て、子育てをめぐる状況は随分と変わりました。
子どもの育ちと親の子育てを社会全体で応援しようという「子ども・子育て支援新制度」も2015年4月にスタートしています。
「社会保障と税の一体改革法」のもと、医療・年金・介護と並んで少子化対策・子育て支援が国の施策の中心に据えられました。

また、昨今、各地に子育てひろばも展開され、地域の皆で子育てを応援する流れも定着し始めています。伝統的母性観一色に塗りこめられていたかつてと比べて、隔世の感があり、「母性愛神話からの解放」に確かな解を得られた思いがいたします。

『母性の研究』から「生涯就業力」へ

しかし、子育て中の女性の心境は複雑です。
結婚や子育てで退職する女性は以前より減ったとはいえ、都市部の待機児問題や職場環境の厳しさは解消されてはいません。
専業主婦となった女性たちは、社会から隔絶され、一時も気の抜けない乳幼児の世話に翻弄され、疲労感と疎外感を抱きながら、そんなことを感じる自分を責めています。
働く母親たちは、子どもが幼い時にそばにいてやれないことが子どもの成長に弊害となるのではないかという、いわゆる「三歳児神話」に悩まされています。
『母性の研究』の調査で出会った母親たちと寸分違わない声ですが、女性の活躍促進が声高に叫ばれているだけに、余計に疎外感と焦燥感を強めているように聞こえます。

しかし、女性が置かれている状況を真に改善するのも、今です。
女性の活躍が必要だという認識が、社会に広がりつつある今だからこそ、生涯にわたって、自立をめざし、社会で自身の力を発揮しようという強い意識が必要なのではないでしょうか。
子育て支援が国や基礎自治体の最重要課題だとされる時代を迎えた今だからこそ、それを巧みに活用し、自分らしく生きる人生を勝ち取る時なのです。
 まさに、「生涯就業力」です。

私の「母性愛神話からの解放」の主張は、母親が子どもを愛する大切さを否定するものではけっしてありません。むしろ、真に子どもを愛するためにこそ、母であると同時にひとりの女性として、社会人として、充実した生き方が必要であること。そのために常に自身を磨き続け、大切な人や社会のために尽くす生き方とそれを可能とする社会の在り方を願ったものです。

この4月に学長に就任し、学園の創立者河井道先生の理念を継承し、新たに「生涯就業力の育成」を恵泉教育の主柱に掲げました。
「生涯就業力の育成」は『母性の研究』以来の私のライフワークの結実でもあり、それを恵泉教育に掲げた初年度に、30余年を経て原著『母性の研究』を新装版として上梓できたことを嬉しく思っております。

☆今週で大学も年内の授業が終了となります。

4月から「学長の部屋」をお読み下さいまして、有難うございました。
年内はこれで最後といたします。
皆様、どうぞ良いクリスマスを、そして、新年をお迎えください。

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