踏み台となる

2016年11月28日

ここのところ、続けて「生涯就業力」について綴っています。
先週のこのブログで、在学生だけではなく、卒業生の人生にも「生就業力」の観点から心を配り続けたいと書きました。

「卒業生の人生も、見守りたい」の言葉をお守りとしてくれるという卒業生

つい先日、大学院の卒業生から、こんな嬉しいメールが届きました。
"先生の「学長の部屋から」のお話をご無礼ながら通勤時間に拝読するのが私の朝の礼拝のようになっております。アカデミックの世界を一歩出ると、そこは自分なりの理屈も通用しない障害物競争のフィールドです。頭も体も五感もキリキリ研ぎ澄ませてやっと一日が過ぎていくという感じです。そんな中で、自分を見失わないよう自分の花を咲かせていけるよう、日々タフにたちまわっております。自分らしくが自分本位にならぬよう... (中略) 
先生の『卒業生の人生も、見守りたい』のお言葉は私のお守りです。"

(吉瀬マリ 大学院平和学研究科 2015年春修了)

女性が生涯に亘って学ぶことは、「踏み台」に上るようなこと

改めて女性が生涯に亘って、学び、自分を磨き続けるとはどういうことなのか、私たち教職員に何ができるのかと考えました。

伊藤雅子さんの「踏み台」の話が思い出されます。
伊藤さんは1970年代に国立市の公民館で、母親を対象として一時保育つきの学習講座を始めた方です。
 当時、主婦が、まして子育て中の母親が子どもを人に預けて学習するなんてけしからんという考え方一色の時代でしたが、伊藤さんは子育て中だからこそ学ぶ必要を訴えて下さったのです。その時にたとえとして用いられたのが、踏み台でした。わずか10数センチの踏み台でも、そこに乗ってみると視野がぐんと広がり、自分の居場所や立ち位置の見え方が変わるといったことを主張されたのです。

前記の卒業生は、子育てをしながら職場でも頑張っている方です。働いている、いないにかかわらず、女性が生涯にわたって学び続けること、それは、この卒業生の言葉にあるように、「自分らしくが自分本位にならぬよう、咲き続けること」なのだと思います。けっしてひとりよがりにならないためにも、視野を広くもって、自分の立ち位置を見極めることが大切なのではないでしょうか。

「踏み台」はいつも学長室の片隅に

折しも、私は先日の恵泉祭で、"社会福祉法人 東京光の家"のコーナーで「踏み台」を求めました。東京光の家では、視覚障害を持つ利用者が心をこめて作った手作りの作品を販売しています(「恵泉祭」パンフレットから引用)。500円でした。

家の中でも高い所に手が届かないことが多く、前々からこうした踏み台がほしかったのですが、優しい手ざわりとどっしりとした安定感が気に入りました。
この踏み台は学長室に置いています(写真)。
私たち教職員は、在学生や卒業生たちの踏み台になることが大切なのだということを、いつも思い出させてくれます。

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