ヨーロッパ

バルトの花 リガ(ラトヴィア)

2013年06月17日

長年にわたって訪れてみたいと願っていたリガ。念願かなった時、拍子抜けするほどあっさりと降り立ってしまった。ラトヴィアが両隣のエストニア、リトアニアと共にEU加盟国となった現在、ヘルシンキでEU域への入国審査を済ませると、ラトヴィアでは何のチェックもない。ほんの20年前ほどまで、ラトヴィアは鉄のカーテンの向こう側どころか、ソ連の一部で、おいそれと行けるような所ではなかったのに。

バルトの花 リガ(ラトヴィア)の続きを読む

華やかなリガ

サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路 ―人はなぜ歩き続けるのか―(スペイン)

2013年04月11日

今日、バチカン、エルサレムと並んでキリスト教(カトリック)三大巡礼地のひとつとされる、スペイン北西端にあるサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の始まりを伝説は次のように語る。813年、修道士ペラギウスが、天使のお告げを受け、星の光に導かれて、十二使徒の一人である聖ヤコブ(スペイン語で「サンティアゴ」)の遺骸が葬られたという墓を発見した。聖ヤコブは、エルサレムの地でヘロデ・アグリッパ1世によって斬首され殉教を遂げたが、彼の弟子二人がその遺体を石の小舟に乗せ、果てしなくさまよった末にこの地に漂着し埋葬したという。この奇跡的発見の話は、またたくまにヨーロッパ中を駆け巡り、その地にはすぐさま聖堂が建てられ、「聖ヤコブの霊廟に詣でれば、すべての罪が許され、天国の門が開かれる」と信じた多くの人々がこの場所を巡礼に訪れるようになった。
その後、10世紀末にこの地を征圧したイスラム勢力によって聖堂は破壊され、一時はキリスト教徒によるこの地への巡礼も途絶えるが、11世紀後半、レコンキスタ(国土回復運動)によってカスティーリャ王国がこの聖地の奪還に成功したことで、キリスト教の聖地として再建されることになる。最盛期の12世紀には、その巡礼者数は年間50万人を数えたというその人気は、中世ヨーロッパで盛んになった聖遺物崇拝と、イスラム教国へのレコンキスタとの連動によるところが大きいといえよう。中世ヨーロッパのキリスト教国では、聖ヤコブは「Santiago matamoros」(「ムーア人駆逐のヤコブ」)と呼ばれ、キリスト教国の守護聖人としてみなされ、キリスト教国の諸王はこぞって巡礼路の整備や巡礼者の保護に努めたのである。
中世においてサンティアゴ巡礼は苦行であった。ヨーロッパ各地を出発した人々は、数ヶ月かけてピレネー山脈の麓にたどり着く。フランス側から峠を越えると、そこからイベリア半島内陸部を横断する約800キロの道のりが始まる。内陸部に入っていくにつれ、樹木も人影もまばらになり、やがて乾いた大平原が出現する。巡礼者たちは、地平線へと続く道をひたすら歩く。夕闇がせまり、星が輝きだすと、小さな村の教会でつかのまの休息をとり、朝が来れば、ふたたび歩き始める。もはや故郷は遥かに遠い。持ち物は、杖と肩掛袋、<帆立の貝殻>(聖ヤコブの遺骸を乗せた小舟に付着していたことに由来し、聖ヤコブのシンボルとされ、サンティアゴ巡礼者の印ともされる巡礼者必携の品)だけ。巡礼者は孤独に押し潰されそうになりながら、ときに命の危険にもさらされながらも、聖ヨハネに見守られていると信じ、聖ヨハネとの「同行二人」の巡礼を続けた。
なぜ人は、そうまでして歩き続けるのだろうか。ブラジル人作家パウロ・コエーリョのサンティアゴ巡礼をテーマにした小説『星の巡礼』には、次のような一節がある。

サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路 ―人はなぜ歩き続けるのか―(スペイン)の続きを読む

サンティアゴ巡礼路

グリニッジ~世界時間の基準点~(イギリス)

2013年04月02日

「グリニッジ」と言えば、「天文台」「標準時」と続くのが、大方の連想であろう。実際には、世界遺産マリタイム・グリニッジ(Maritime Greenwich)は天文台、王立海軍大学、クィーンズ・ハウスなどで構成されている。これらの建造物はいずれもイングランド・スチュアート朝時代に建設された。イングランド・スチュアート朝は17世紀初めにチューダー朝を継いだ王朝である。チューダー朝最後の女王エリザベス1世が世継ぎを儲けることなく崩御したため、北方スコットランドの王家がイングランド王国を受け継いだのが、その始まりである。スチュアート朝が続いた1603年から1714年まで百年余りの間に「ピューリタン革命」と「名誉革命」の二つの革命が起こり、王家としては災難続きであった。その一方で、イングランドは、この1世紀で科学を大いに発達させ、海洋国家の礎を築いていった。

グリニッジ~世界時間の基準点~(イギリス)の続きを読む

グリニッジ天文台

多文化混交が魅了する街―セビーリャ―(セビーリャの大聖堂、アルカサル、インディアス古文書館)

2013年01月07日

スペイン南部・アンダルシア州の州都、セビーリャ。この街ほど「エキゾチック」という言葉で形容されてきた街はないだろう。
夜、迷宮のように入り組んだ街路に、フラメンコ・ギターの音が響き渡る。タブラオ(フラメンコ酒場)の中では、カンタオール(男性歌手)が、悲哀漂う魂の込もった歌を歌っている。極彩色に着飾ったバイラオーラ(女性ダンサー)たちは、激しいステップを踏みながら、ほとばしるその熱情と生命力を全身全霊で表現する。フラメンコは、(かつてジプシーと呼ばれた)ロマ人の一集団(9世紀頃に北インドを出て、中東・北アフリカの広大なイスラム帝国の領土を旅して15世紀までにイベリア半島南部に定住した人々)が発展させた、非ヨーロッパ的雰囲気に満ちた音楽芸能である。

多文化混交が魅了する街―セビーリャ―(セビーリャの大聖堂、アルカサル、インディアス古文書館)の続きを読む

セビーリャ大聖堂

「大聖堂の時代」の幕開け シャルトル大聖堂

2012年11月21日

12世紀から14世紀、地域によっては15世紀にいたるまで西ヨーロッパで流行した芸術様式を「ゴシック美術」と呼ぶ。「ゴシック」の語は、古代の末期にローマ帝国に侵入したゴート族に由来する。しかしながら、ゴシック美術が花開いた時代は、ゴート族を始めとするゲルマン民族の大移動からは長い年月が経過しており、「ゴシック美術」と「ゴート族」の間には直接的な関係はほとんどない。

「大聖堂の時代」の幕開け シャルトル大聖堂の続きを読む

シャルトル大聖堂西正面