カンチャナブリフィールドトリップ

2017年10月17日  投稿者:国際社会学科3年 横尾朱音

私たちは9月26日から27日の2日間、観光地としても有名な、「カンチャナブリ」に行ってきました。チェンマイから車で13時間かけ向かいました。

カンチャナブリで賑わっている場所の1つに、第二次世界大戦にまつわる映画「戦場に架ける橋」で舞台となった「クウェー川鉄橋」があります。ここでは、橋の上を列車が走る様子を至近距離で見ることができます。列車が通っていない時間は、線路の上を歩くこともできますし、そこからの景色も楽しむことができます。その橋の上を通る「泰麺鉄道」も有名な観光の一つです。実際に私たちも「泰麺鉄道」に乗車しました。手を伸ばせば、岩や草に触れてしまうほど、スリル満点の景色を見ることができます。私たちが乗車した日も、平日なのにも関わらず多くの人がいました。この泰麺鉄道は、旅行会社が提供するツアーも存在するそうです。観光地として親しまれていることがよく分かります。

しかし、歴史を知るとただ楽しいだけでは終われない、悲しい現実があることが分かります。ここでは、この泰麺鉄道に関する歴史について少し書きたいと思います。1941年12月、日本軍のハワイ真珠湾攻撃とマラヤ侵略により太平洋戦争が勃発しました。日本軍はビルマでの軍隊を維持するために、安全性の高い供給経路が早急に必要でした。そのため日本軍は、タイのバンポンからビルマのタンビュザヤまで、ジャングルと山を通過する長さ415メートルの鉄道の建設を決意しました。鉄道を建設するために日本軍は、約250,000人のアジア人労働者と、60,000人を超える戦争捕虜からなる多国籍の労働者を集めました。作業は、主に手作業で行われました。1943年からは工事のペースが一気に速められ、捕虜とアジア人労働者は長時間の労働を強いられました。食事も満足のいくものではなく、栄養不足で飢餓になる人が後を絶たちませんでした。また雨季にはコレラの蔓延、その他マラリア・赤痢・熱帯腫瘍など様々な病気にかかり、満足な医療も受けられず多数の死者が出ました。その数、12,399人に上ります。そのため、この「泰麺鉄道」は「死の鉄道」と呼ばれることもあります。

昭和19年2月当時の日本軍によって建てられた泰緬鉄道建設に従事し亡くなった連合軍並び関係者の方々の慰霊塔から

カンチャナブリには、このような歴史を学べる場所がたくさん存在します。私たちはその中の、JEATH戦争博物館・連合軍共同墓地・泰麺鉄道博物館・第二次世界大戦博物館・ヘルファイヤパス メモリアルに行ってきました。展示物や資料を読み、日本が関わった戦争の重みを直に感じました。

恵泉の授業では加害者としての立場から戦争を学ぶことはあったものの、実際に自分の目で見ることは初めてでした。貴重な体験をすることができました。日本も戦争によって多大な被害を受けました。しかし同時に、加害者でもあったことを忘れてはいけません。戦争を2度と起こさないためにも、戦争を経験したことのない私たちが、戦争について学ぶ必要があると感じました。