カンチャナブリフィールドトリップ『Forgive But Not Forget』

2016年10月13日  投稿者:国際社会学科3年 守屋亜純

私たちは9月28~29日の2日間、チェンマイからおよそ10時間の所にある中部タイ、カンチャナブリ県でフィールドトリップを行いました。ここでは第二次世界大戦中の1942年から1943年にかけて日本軍によって行われた泰緬鉄道(別名を「死の鉄道」)建設に関する遺品や記録が残る博物館の見学、さらに実際に泰緬鉄道に乗り、線路の上を歩くという体験をすることができました。

まずは、泰緬鉄道について事前講義とフィールドトリップで得た情報を基に説明したいと思います。別名を死の鉄道と呼ばれる泰緬鉄道はタイからビルマへと抜けて走る全長415キロにわたる鉄道で、現在でも一部は当時の面影を残したまま運行されています。戦前の英国調査隊によると、この415キロという距離は鉄道を建設するのに10年かかると言われていたにも関わらず、日本軍はたった1年4か月で鉄道を完成させよという無謀な命令を下しました。この背景には当時日本軍が戦っていたビルマ・インド戦線への軍需物資の輸送が困難であったため、内陸部に新しい輸送路が必要だったからです。そして、この鉄道建設の労働力として投入されたのが約4万人の連合軍(アメリカ、イギリス、オーストラリアなど)捕虜兵士と10万人以上のアジア人労働者(中国、インドネシア、ビルマ、マレーシア、インド、シンガポール、タイ)でした。熱帯のジャングルで長時間の重労働を強いられ、粗末な食事しか与えられていなかった労働者たちはさまざまな疫病にかかり、さらに医薬品の不足により多くの犠牲者を出すことになりました。カンチャナブリの戦争博物館に残されている記録の多くは連合軍捕虜が残したもので、日本軍からどのような扱いを受けていたのかが鮮明に描かれている絵や写真、死者の名簿も現在まで保存され、悲惨な歴史を伝えています。一方、アジア人労働者たちは識字能力がなかったことや連合軍捕虜のように組織化されていたわけではなかったため、正確な死者数や記録はほとんど残っていません。さらに、戦後、生き残ったアジア人労働者たちが当時のことについて口を開くことはほとんどなく、また日本からの戦後補償も行われていないのが現状です。

私は長期FSに参加するまで泰緬鉄道についてほとんど知識がなく、初めて話を聞いた時はまた日本の加害者としての歴史は伝えられておらず、このことを知っている日本人は一体どのくらいいるのだろうと疑問に思いました。そして、実際に訪問してみると、知識を持っているだけと自分の目で見ることの間には大きな差があることをとても感じました。特に連合軍捕虜が眠る墓地では、一人ひとりの名前や年齢などが彫られており、家族の写真が置いてある墓地もありました。本を読むだけでは何人が死んだという事実だけを知って終わりのように感じますが、自分たちと同じように当時の時間を生きていたことを感じたことで今までの知識が急に現実味をおび、胸に迫るものがありました。また、この地を日本人として訪れることで過去を忘れてはいけないということの責任を感じ、歴史の中の事実を学ぶことが重要であると思いました。そして、実際に見ること、歴史の中の出来事ではなく、これからの未来に起こり得るかもしれない現実として受け止める必要があり、多くの人に泰緬鉄道について知ってもらいたいと思いました。

クウェー川にかかる橋にのびる泰緬鉄道
ここは現在でも運行されている。